薔薇十字館

僕の愛しい彼女。

もう直ぐ午後十一時になる。
僕にとってこの時間はとても重要な時間だ。愛する彼女に逢えるかどうかの瀬戸際の時間。
彼女は午後十一時を過ぎると、決まってこの街から姿を消す。
どれだけ逢いたくとも、硬く門を閉ざしたまま出てこようとはしないのだ。
逢いたさに背を押され、どんなプレゼントを差し出そうとも彼女は受け取ってくれなかった。
この時間を過ぎても逢うことが出来るのは、必ず午後十一時を過ぎる前に彼女を硬く狭い門から連れ出した時だけ。
それだけだった。

後十分。
オフィスで大きなディスプレイに向かい、面倒な残業事をキーボードに託しながら必死に彼女の面影を消そうとするが、
細い姿態と吐息が脳裏を過り、なかなか集中させてくれない。
如何しているだろうか。彼の白く狭い部屋の中で蹲っているのだろうか。
寂しがっていないだろうか。
そう考えると居ても経っても居られなくなる。
否、躯が彼女を欲しているのだ。
魅力的な朱唇を指で弄び、口付けたいのだ。
次第に動悸が速くなる。キーボードで打っている文字列が、全く意味を成さないものに見えてくる。
嗚呼。
僕は勢い良く立ち上がると、ジャケットを掴み、オフィスを駆け出した。
残業中の同僚は、僕を奇異の目で見るが気にしては居られない。
後五分。
間に合わないかも知れない、等という弱気な思考を無理矢理追い遣って僕は走った。
ビルから出ると、もう外は肌寒く、冬の予感がする。
「おい、何處に行くんだ。」
声を掛けられた方を向くと、其処には上司が買い物袋をぶら下げて立っていた。
夜食でも買ってきたのだろうが、僕は特に興味を示さずに
「一寸其処まで行ってきます。」
と素知らぬ顔で宣った。
早く僕を彼女の所に行かせてくれ。彼女がこの寒さに凍えてしまったら如何するつもりなのだ。
そんな僕の思考を分かる筈もなく、彼は
「旨そうなもの買ってきたんだよ。一緒に喰わないか。」
等と云う。
僕は耐えきれなくなり、すみません、急ぐので。
と踵を返し、また駆け出した。
後ろから制止する声が聞こえるが、構いはしない。
減俸になろうが知った事ではない。
もう、時間が無いのだ。

暫く無我夢中で走ると、彼女の部屋が見えてきた。
彼処に彼女が居るのだ。そう思うだけで心が弾む。
徐に時計を見る。十時五十八分。
緩慢と彼女の部屋に近付き、ポケットから五百円硬貨を取り出す。
銀色に光る硬貨の挿入口を撫でると、其処に五百円玉を押し込んだ。
入った瞬間、息を吹き返すかのように全ての灯りが輝きを増し、僕を蒼く照らし出す。
やっと逢えたね。
マイルドセブンの隣にある、DUNHILL lightsのボタンを押し、僕は狭い門から彼女を連れ出した。