薔薇十字館

ときめき

またね。
彼女はそう言うと、僕に手を振り、電車に乗り込んだ。
僕はあやふやな笑顔を浮かべ、窓から見える彼女にひらひらと手を振り返す。
扉が閉まった後も、彼女は車内広告のように窓に張り付いてずっと手を振り続けている。
濁声のアナウンスが終わると、ゆっくりと電車は走り出し、
彼女の映る角度が急になって、やがて見えなくなっていった。

次に逢う約束もしたのに、矢張り「さよなら」するのは寂しくなる。
人間は贅沢な生き物だ。何時も今より少しだけ贅沢をしたくなるものだ。
彼女と週に一回程度逢うことで、少なからず僕は満たされていたけれども、
これが週に二回、三回逢えるならば、どれだけ仕合わせになるのだろう。
毎日逢えるのならば!
そんな事を考えながらゆっくりとホームの階段を下りたが、
すぐにそれは空画事でしかないことを思い出し、少し陰鬱な気分になった。
これからも同じような気持ちを持ち続けられる、なんていうロマンティシズムは、
とうの昔に先人が大英図書館に寄贈してしまった。
何時の間にか、僕も彼女もこんな気持ちなんて忘れてしまって、
全てが「当たり前」という日常に組み込まれてしまう事を、既に知っているのだ。
だからこそ、今だけでもこのむず痒い「ときめき」に浸っていたいのかも知れないけれども。

寂しい大人になってしまったものだ。
自嘲気味に笑うと、携帯電話が微かに揺れたような気がして、ポケットに手を差し込んでみた。
しかし、この非情な電子機器は、僕の淡い胸の高鳴りなどそっちのけで、 相変わらず時刻だけを浮かべている。
どうかしてるな。
頭を掻きながら携帯電話を元に戻そうとすると、
今まで変化の乏しかった長方形が、突然身悶えしながら色鮮やかに変化した。

嗚呼、分かっていらっしゃる。

メールを一瞥した僕は微かに口元を綻ばせると、先刻降りた階段を駆け上がった。