薔薇十字館

価値の尺度

僕は舌打ちをして手帳を閉じた。
仄暗い喫茶店は、調度品こそそれなりに見えたが、よくよく観察すると、
合板とメッキで構成された張りぼてでしかなかった。
僕は泥水のようなコーヒーを啜りながら今日二箱目の煙草に手を伸ばす。
大量生産されたプラスティックと合板の出来合机の向こう側には、
何時になく不機嫌そうな、付き合いだして一年がたとうとしている彼女が、
これもまた不味そうにコーヒーを啜っていた。

彼女は同じ会社の部署違いで、社内恋愛だった。社内恋愛といえば聞こえは良いが、
飲みの席で持って帰ったといえば途端に印象が悪くなる。よくある「始まり」なのかもしれないが、
だからといって誇れることでもない。

「取引先がやらかしちゃって、スケジュール組めないなあ。」
「何時もそうじゃない。ずっと時間が合わないことは分かってたけど、酷くない?」
語尾を上げて抗議する彼女は、最早呆れ顔である。付き合い始めてから旅行に行こうと云っていたのだけれども、
結局その機会を逃し続けていたのだ。
怒っても仕方がないのかもしれないが、時間が合わないのはどうにも仕様が無い。
「いや、そう云われても僕にどうも出来ないじゃないか。
ただでさえやらかされた分、納期が切迫しているのに、僕まではけたら。」
「あなたの時間の使い方が悪いのよ。」
どうもこの話は噛み合いそうにない。
火の付いた煙草を揉み消す。兎に角何とかこの空気を変えなければ・・・。
そう思い立つと、既に冷め切ったコーヒーカップを空にして彼女を見つめた。
「じゃあさ、今から一時間位ならば時間を使えるから、何か、そう、プレゼントするよ。何が良い?
ネックレス?ピアス?指輪?」
そうね、一時間しか私に裂けないのね、と小声で愚痴を言いながらも、彼女は何かを考えている様に押し黙った。
銀座のショーウィンドウでも想像しているのだろう。
所詮女は金で動くのだ。適当な貴金属でも与えていれば、多少の不満など消えてしまう。
価値観の差違が多少あったとしても、それは10万円が30万円になった事でしかない。
今まで金をちらつかせてなびかなかった女が居ただろうか。

僕は童顔のウェイトレスを捕まえて、コーヒーのお代わりを注文した。この見るからに大学生のこの娘も金で動くのだろう。 「クロエのバッグ。」
一頻り考えていた彼女はぼそりと漏らした。
「良いんじゃない?今から行こうか。」
「ティファニーのネックレス。ヴィトンのサンダル。」
「・・・流石にそれは多いんじゃない?」
席を立とうと腰を浮かした僕は、また座り込む。
「良いじゃない。全部同じ物で良いから。」
「同じ物?」
女という生き物は、一度貰った物を再度欲しがるものなのだろうか。否、そんなことはない。
確かに色々と買った覚えはあるが、彼女に上げたものは今挙げられた物ではなかったはずだ。
だが、確かに一度買った覚えはある。クロエのバッグ、ティファニーのネックレス、ヴィトンのサンダル・・・。
───嫌な予感がした。
僕は軽く眉間に皺を寄せながら、恐る恐る彼女を見る。
彼女は───真顔だった。表情の無い、冷え切った顔。
「知ってるわよ。今まで云わなかったけど。浮気する時間は割けても、私に割く時間はないんでしょ?」
僕はどういう顔をしているのだろうか。酷く間の抜けた顔をしているのか、それとも引き攣りきった顔なのだろうか。
「どうして、それを。」
そう云うのが精一杯だった。
「企画部の子から聞いたわよ。一寸した噂になってたみたいね。良い笑いものだわ。
どうせ貴方のことだから、お酒の席で武勇伝のように語ってたんでしょうね。」
彼女は僕を一瞥した後、軽く溜息を吐いて席を立つ。
浮気する時間が買えるんなら、私との時間も買えたわよね。
捨て台詞を吐きながら歩き去る彼女を目の端で追いながらも、声をかけられるはずもなく、
僕は椅子の背もたれに脱力した躰を預けるしかなかった。

彼女は何故旅行にこだわったのだろう。浮気を知っていたのならば、拘る必要などあるはずがない。
そもそも旅行に行けば何かが変わっていたのだろうか。
否、旅行先でぶちまけられる可能性の方が高かったに違いない。
まあ中には見て見ぬ振りをし続けてくれる子もいないわけではなかったのだけれども・・・。
「コーヒーお代わりをお持ち致しました。」
ウェイトレスが計ったようにコーヒーを持ってくる。
「今の話、聞いてた?」
気の抜けた声でウェイトレスに話しかけると、そのウェイトレスは、先程立ち去った彼女と同じ顔をして宣った。
「ヴィトンのサンダル。」 ───だよね。