薔薇十字館

ウエディングドレスに包まれた彼女は美しい黒髪を自然に下ろし、艶やかな唇には
桜色のルージュを引いていた。
控え室に招かれた僕はと云えば借り物の燕尾服に身を包んでいたが、足の長さが足りずに
近くで見ると何か間違っている。
久しぶりね。椅子に座り鏡越しに僕を見る彼女は微笑みながら僕の顔を見た。
鏡の中の僕は無表情だったに違いない。何の感情も表に出さない、能面のような顔。
如何して僕を呼んだんだい?
近くにあった椅子に軽く腰掛けながら僕は彼女に問いかけた。

もう、別れて何年になるだろう。当時ショートカットで八重歯の可愛かった彼女は何も云わずに
僕の元から去っていった。
理由なんて領るはずもない。ただついこの間ポストの中に紙切れが、そう、結婚式の招待状が
挟まっていることに気付くまで連絡さえ取れなかったから。

それはね。彼女は足を組んで凝乎と彼女を見る僕の方に向き直ると、にこやかな笑顔を崩さずに
貴方なら私の仕合わせを祝ってくれそうだから、と応えた。
仕合わせ、ね。
突然消えておいて其の言い分はないだろう。
僕は釈然としないまま、張り付いた笑みを浮かべる彼女を見る。
あの頃に比べて髪、伸びたんだね。
あら、貴方が好きだって云ったからよ。
結婚する君が云っても説得力がないね。
此の数年間でおべっかも巧くなったのだろうか。軽口さえ叩けなかった彼女は能く喋った。
まるで沈黙を怖がるように。

一頻り話し終えると、僕は席を立った。
当たり障りの話しか話せない今の僕には苦痛でしかなかったのだ。
控え室のドアを開けようとドアノブに手をかける。
すると背後から白い羽のようなものが。
彼女が後ろから抱きついたのだ。
僕はドアノブに右手をかけたまま、動くことが出來なかった。
彼女が何時もつけていた香水の香りが鼻腔を擽る。
エタニティー、懐かしいね。でも花嫁がつける香りじゃあないね。
目を閉じて彼女の香りを味わう。すると瞼の奥に懐かしい思い出が
浮かび上がってきた。

あの時私が貴方の前からいなくなったのは。
彼女は涙声で後背に語りかける。
もう、良いよ。君が去ったのは僕が愛しすぎたからだろう?
無言できつく抱きしめ返す細い腕が其の返答なのだろうか。
僕は未だドアノブから手を離せずにいた。
過去への回帰か、現実からの逃避か。

ねえ、私を攫って。
僕の後背を重い言葉で責め立てる。
危うくノブを放しそうになる。
でも結婚するんだろう?
震える声でそう問い返す。
すると彼女は更に強く僕の腰を掴むと
貴方に愛されたいのよ、と叫び大声で泣き出した。
不審に思ったのだろう、彼女の母親の声がドア越しに聞こえる。
すみません、大丈夫です。と聲をかけ、僕は彼女の方にふりかえらない儘、
其れは出來ない。
そう告げた。

僕は3人だけ、愛したんだよ。
一人は君、君は僕の元から不意に姿を消したね。
小さく頷く感覚が後背を伝わる。
そして二人目は・・・僕では仕合わせに出來そうにないんだ。
色んな事情が重なってね。
でも今、僕が愛している婦なら仕合わせに出來そうなんだ。
だから、君を攫えない。

じゃあ今仕合わせなの?
泣きやんだ彼女は顔を埋めたまま僕に問うた。
だが僕は仕合わせだよ、とは答えられなかった。
「君を待っていたあの部屋にいる気分かな。」
としか。
そして、僕は扉を開けた。
如何に辛かろうと、愛故に。

結婚式はしめやかに行われた。
化粧が落ちてしまった彼女の所為で30分遅れて始まったのだが。
今でも僕は愛しているよ。
彼女のブーケは晴れ渡る空に舞ったのを見届けると、
僕は教会に背を向けた。