火を付けたばかりの煙草を置いて椅子から立ち上がると、
何かが微かに割れた音がした。
音のした方を見遣ると灰皿に微かな罅が入っている。
煙草の温度を受け止める爲の容物なのに耐えきれず割れるとは。
此の空間は狂っている。
ベッドの方を見やれば先程まで肌を合わせていた婦がぼうと上を見ていた。
何か言いたげだが、僕は素知らぬ振りをしてベッドに腰掛ける。
婦の貌が見えないように。
今日は歸れ、って云いたいんだろう?
僕は振り向かずに壁に語り掛ける。
そうね。彼女は憂鬱そうに起き上がると、とん、と背中に背中をつけた。
ねえ、如何して私に逢ってくれるの?
空気を震わせる聲は透き通っており、曇りがちな聲を持つ僕は劣等感さえ覺えてしまう。
愛しているからです。
事も無げに云おうと思ったが、如何しても云えなかった。
何も云えずに凝乎としていると、クスクスと笑う感覚が背中を伝わってきた。
如何したんですか?
嗤う彼女をいぶかしんで聞くと、だって、と彼女は嗤う。
だって君は優しいんですもの。
僕はぎょっとして振り向いた。まさかそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。
僕が振り向くと其の反動で彼女は上半身がベットから落ちそうになる。
そんな不自然な体勢も彼女なら似合うから不思議だ。
均整の羽を広げるように長い髪が散らばっても、
神々しいまでの存在を揺るがすことはなかった。
僕は優しくなんかありません。
落ちかけた身体をベッドに戻しながら僕は反論する。
すると彼女は僕の貌を両手で包むと間近まで引き寄せた。
君は私を誰よりも愛してくれているわ。君の手札の女の子の中で一番。
そういうと彼女はゆっくりと口付けた。僕の額に。
大した自信ですね。
僕は彼女の手を払い、服を身に着けた。
慥かに愛していた。ずるずると嵌る自分を客観視出來ないほど。
でも。
でも君は狡いわ。それを消して私に云ってくれない。
服を纏い終えて振り返ると、寂しそうに微笑んでいる彼女がいた。
また逢ってくれるでしょう?
そう言う彼女に返答する気はなかった。
會話を交わせば交わすほど、辛くなっていくのが分かりきっていたから。
そして、また逢ってしまう自分が目に浮かぶようだったから。
明日は未だ学校がありますからこれで。
僕は颯颯と制服の上着を羽織ると玄関に向かった。
それじゃあ、邦雄さんに宜しく。
口の端を歪めながら僕は彼女を見る。
白熱灯に照らされる彼女は眼を細めて僕を注視ている。
潤んだ其の眸は男を求めているのか、それとも僕だけを求めているのか。
つい口にしてしまいそうになる一言を飲み込みながら
ドアノブに手をかける。
すると彼女は困ったように首を傾げながら
夫は海外出張であと3箇月も帰ってこないのよ。
と云った。
知ってますよ。そうじゃなければ貴方は僕なんかに逢ってくれない。
僕は飲み込んだ一言を頭の中で反覆させながら厚いドアを閉めた。
人妻を愛して、何が惡い。
自分を肯定したかった。