薔薇十字館

鬱になると僕は逃げ込む場所があった。
2LDKの分譲マンション、12階。
女の部屋だった。
今日は何を飲むの?と訊かれ、僕は煙草を燻らせながら
グレンリベット、シングルロックで、と応じた。
一人暮らしでは広すぎる部屋に彼女は住んでいるように思えたが、
老後の爲よ、等と云うからそれ以上は訊かなかった。
ダブルベッドに男物のガウンがあることで充分、過去を想像できたからだ。
今日は何なの?
自分のグラスに赤ワインを注いで僕にスコッチを渡す彼女は、
何時も以上に疲れているように見える。
貴方こそ。また別の男を引っかけでもしたんでしょう。
意地悪な質問に、彼女は唇を歪めながら
少年、何も分かっていないのね。とはぐらかした。

彼女は僕を子供扱いする。
僕の方が一歳だけ年上なのに。
だが別に其れを不快には思わなかった。
慥かに彼女よりも僕の方が子供で、僕も彼女を子供扱いするのだから。
子供らしさ、というものを忘れてしまってはいけないのかも知れない。
子供らしい分、「大人」に較べて随分と魅力的に才能を発揮できるのだから。
じゃあ如何して疲れているんですか。
舌の上でスコッチを轉がした後、ダイニングバーに腕を組んで顎を載せながら
質問する。
じゃあ貴方は何故此處に來たの?
お互いに話を変えようとすることを心地よく感じながらグラスを回す。

僕達はそういう關係だった。弱味を話すことなく、
只傷みを舐め合う關係。悲愴なまでの痛みのみを分かちあう關係なのだ。

そんな僕等は、何時もの様に他愛のない話をして時間を消費していった。
お互いに譲らず、お互いに認めず、そんな不毛とも云える時間を
費やしていく。
私達、何してるんだろうね。
彼女は酔いの回った紅い目で僕を注視た。
熱っぽい眸。濡れた唇。偶に耳にかける髪を掬う指。
男ならこれで参って仕舞うんだろう。
お互いに技術を披露しているんだと思いますよ。
思わず視線をずらして返答する。
そうね。
彼女は快活に笑った。僕が人前で見る事のない仕種はこれだけだった。
快活に笑うこと。
対称的に僕は快活に笑った。矢張り彼女の域に達することが出來ない。

今日は泊まって行くんでしょう?
彼女は僕の背中から腕を胸に廻す。
今日も止めておきますよ。
僕は笑いながら手を払うと、グラスに残った氷を噛み砕いた。
食べられそうですから。
すると彼女は失笑して、とびきりの笑顔で僕に云った。
また逢おう。少年。

帰り道で足許の覺束無いながらにも何時から僕は
彼女に敬語を使うようになったのだろう、等と考えていた。
そういえば、彼女に捨てられた時だったかな。
月は僕を見下しながら、ゆっくりと大陽に駆逐されるのだろう。
そして大陽は月に葬られる。