薔薇十字館

 避暑地に選んだ旅館の縁側には、小さな金魚鉢が置かれていた。
避暑といっても太陽は照りつけ続け、蝉の声は暑さを倍増させようと
盛んに鳴き続けている。涼と感じるものは、茂った竹林と、此の小さな金魚鉢だけだった。
澄んだ水が張られた鉢の中には、その大きさに添った金魚が三匹、ゆらゆらと尾鰭を揺らしている。

 今年もまたいらっしゃってくれましたのね。
隣に座っている女将は優しく微笑みながら、好く冷えた水を差し出した。
 ええ、此処に来ると心が洗われますから。
僕は其れを受け取りながら、また小さな硝子製の鉢を見つめた。
歯のない此の魚は、口を上げながら何かを欲するように水面を叩いている。
 息が詰まるのでしょうか。
金魚を見ながら女将に尋ねる。
すると女将は口元を押さえながら微かに笑うと、
 いいえ、金魚は何時もそうやっているんですよ。
と応えた。ぱくぱくと口をせわしなく動かす金魚の口元からでた泡だった水が
水面を汚している。
 じゃあ水の中から飛び出たいのでしょうか。
腕組みをしながらもう一度女将を見る。
 すると、相変わらず面白いことを考えていらっしゃるのね。と、
今度は笑おうともせずに、女将は僕の眸を見据えた。

 金魚は魚で御座いましょう?水から飛び出てしまいますと死んでしまいますわ。
 其れはそうですが・・・。
 答えに窮した僕は、女将の視線から逃れるように金魚鉢を見る。
金魚は相変わらず狭い水の中を泳ぎ回っている。
 別に莫迦にしている訳じゃあありませんよ。
女将は鉢を大事そうに抱えると、膝の上に載せた。
 金魚には、満腹中枢が無いのですってね。
だから金魚は何時も口をぱくぱくさせて餌を欲しているのだそうですよ。
 へえ、じゃあ沢山餌を与えたら、金魚は食べ続けるのですか。
 そうなりますね。

 一寸待っていて下さいね、と云って女将は鉢を膝から降ろし、
庭に置いてあった竹筒に入った金魚の餌を持ってきた。
そして少量の餌を水面に振り撒く。
 だから食べ過ぎると死んでしまうのだそうです。
金魚は・・・可哀想な生き物ですよね。欲しいものを欲しいだけ得ると死んでしまうのですから。
彼女は寂しそうに呟くと、未だ諸用がありますので、と言い残して、
庭から姿を消した。
金魚は貪欲に水面に口付けている。

はくぱく。

ぱくぱく。