僕は相変わらずバーカウンターで煙草を吹かしていた。
他に客は見当たらず、マスターも何時もの作り笑いを辭めて一緒になって
煙草を吹かしている。
無理もない。既に閉店時間は1時間以上過ぎているのだから。
「マスター、マスターなら別れる時如何する?」
僕の不躾な質問にマスターは煙草を落とした。
つい最近結婚したばかりの彼には手酷い質問だったかもしれない。
マスターは考え抜いた擧げ句、謝り倒すかな・・・、と搾り出すような聲で呟いた。
成る程ね。僕はロックグラスの縁をなぞりながら朱唇の端を上げる。
僕なら、そう云い掛けた時、開くはずの無い店の扉が呼び鈴を揺らしながら
冷たい風を呼び込んだ。
頸筋に走る惡寒が惡い予感を誘う。
いらっしゃいませ。
マスターはさっきまで不機嫌そうだった容貌を豹變させて客を迎え入れた。
何時もならば笑って追い返すのに、どうやら餘程さっきの話が堪えたらしい。
誰なのだろう。外からは完全に閉まっているようにしか見えないはずなのに。
僕は緩慢と音を立てて階段を降りてくる者の容姿を見ようと目を凝らした。
そしてようやく其の來客の容貌を視認出來た時、深い溜息と輕い目眩を覺えた。
「どうせ此處にゐると思ったから。」
降りてきたのは僕の恋人だった。
彼女はヴィダルサスーン張りのミディアムボブの髮を揺らしながら僕の隣りに坐る。
「なんだい突然。逢うのは來週だろう?」
僕は新しい煙草に火を附けながら横目で彼女を見た。
俯向いたまま僕の容貌を見ようとしない彼女の態度は
如何にも意味ありげで心拍數が跳ね上がる。
マスターはレモンジュースを垂らした水を僕と彼女の前に差し出した。
マスターの容貌もやや引きつり氣味で可愛そうになってくる。
僕がもう一度彼女を促すと、彼女は重い口調で別れましょう、と呟いた。
思わず彼女ではなくマスターを見ると、マスターも口を半開きにして僕を見ている。
ああ、これが顔を見合わせるということなのか。
僕は、ふうん、じゃあね、と事も無げに煙草を吹かした。
「何、理由も聞かないの?」
彼女は僕の態度が厭に氣に入らないらしく憤慨する。
「聞いて如何するのさ。どうせ他に情夫でも出來たんだろう?」
どうせ君は、と言い終わる前に彼女に拳で思い切り毆り飛ばされた。
最近の女性はマッチョで困る。
・・・非常に。
僕が頭を上げる頃には彼女の姿はバーの何處にも見当たらなかったかった。
「マスター、僕ならこうするのさ。徹底的に嫌われろ。今頃彼女はすっきり壯快、さ。」
鈍痛で痺れた頬を押さえながら捨て臺詞のように云うと、煙草を加えて火をつけようと
ライターを取り出した。
「・・・痛みますか。」
マスターはビニィル袋で作った冰嚢を僕に手渡す。
「・・・心もね。」
ようやく煙草に火が点いたのは、マスターが震えの止まらない僕の手を下げ
ペーパーマッチで点けてくれた時だった。