薔薇十字館


部屋に戻ると、其處に彼がいた。
微昏い夜灯の下に、彼が蹲っていたのだ。
僕は聲に爲らない叫びを上げながら彼を抱き起こした。
着衣は乱れ、何處を歩いてきたのか分からない位汚れている。
口元からは血の混じった粘液質の體液を垂らしながら薄く息を吐いていた。
其の息は紫煙のようで、彼の周りを空白が侵食しているように見える。
彼の身に何が起きたかは全く分からなかった。
只、もう目も開かなくなる程衰弱してゐるという事實だけが、
事態の深刻さを示していた。

僕は凄まじい臭氣に包まれた彼を部屋に入れると、弱弱しく抵抗する
彼の顔を無理やり自分に向けさせて、濡れタオルで彼の口元を拭った。
改めて見る彼は痩せ細り、自重さえ支えられ無そうに身動ぎしている。
「何が起きたんだ。」
やっと喉を振るわせられるようになった僕の問いかけに応える力も殘っていないのだろうか、
彼は何も応えようとはしない。
取り敢えず毛布を取り出して煖房に火を入れる。
焜炉に藥罐をかけ、なかなか温まらない室温に苛立ちながら彼を見ると、彼は
薄く目を開けて僕を見ていた。

昔はこんな表情を見せる事は無かった。傍若無人で警戒心の強い、毅然としていたのに
今でははもう見る影も無く、
毛布に包まれて立つ事も儘爲らない姿は自尊の二文字など消え失せたかのようだった。
僕は彼の前に座った。そして凝乎と目を合わせる。
普段は目を合わせようとしない彼が、今日は凝乎と僕から目を離そうとはしない。
過ぎた時間など分からなかった。繰り返す瞬きと、不自由そうにする身動ぎ。
つい居た堪れなくなって僕は目頭を拭った。
如何して早く彼は来なかったのだろう。少なくともこんな事態には爲っていなかっただろうに。

すすり泣く僕を見兼ねたのか如何かは分からない。
彼は、緩慢と立ち上がった。
そして玄関の扉まで蹣跚きながら辿り着くと、もう一度僕を見た。
「開けて欲しいのか?」
涙声で聽いてみるが矢張り返答は無い。
凝乎と此方を見たまま、壁に身を預けながら動こうとはしなかった。
外に出たいのだ。行く宛てが有るとは思えないのに。
「此處にいても、構わないんだよ?」
すると彼は流れる體液を拭おうともせずに口を開けた。
もう声が出ないのだろう。生きながら腐臭を漂わせる彼には精一杯の意思表示だったのかも知れない。

僕は涙を拭うと、扉を開け放った。
彼は重そうに体を引き摺るようにして部屋から遠退いていく。
点々と續く血液の混じった體液の痕が、闇に飲まれていった。

それ以来、僕は彼を見ていない。