薔薇十字館

時刻は15時40分、まだ孤独の姿は見えない。

木枯しが吹き荒ぶ公園で、彼女は寒そうに肩を抱く。
「寒いんじゃあないのかい?歸ろうか。」
僕が歸宅を促すと、ううん、寒くないよ、と応えて直ぐ、大きくくしゃみをして
照れ隱しの笑みを漏らした。
全く。苦笑いを浮かべた僕は自分のコートを遠慮する彼女の肩にかけた。
大きすぎるコートはこれから来る夕暮れの闇の色合を持ち、コートというよりも
マントと表現した方が良さそうだった。

人影の疎らな公園はまるで自分達の爲に開けられた特別の場所のように感じられて
歸るのも少し勿體ないような氣もする。
彼女もそう思っていたのだろう。ボートに乘ろうよ、と僕を誘って一人で驅け出した。
慌てて後をついて走るがなかなか追いつけない。
如何すれば其の身體でそれだけ速く走れるのか不思議だったが兔に角追いつけないでいる。
散々息を切らしてボート乘り場に着くと、既に彼女はボートを借りていた。
「今度からカモシカと呼んで上げよう・・・。」
惡態混じりにそう呟くと、耳聰い彼女は複雜な表情をしてボートの上から、
・・・厭かも・・・、等と不滿を口にする。
やれやれ。眞冬に走らされた喉は乾燥しきってこれ以上の輕口も云えない。
僕は温和しく先に乘り込んでいた彼女の居るボートに乘り込んだ。

障害物の無い水面は冷たい風が直に当たって触覚が無くなってきた。
寒い寒いと云いながらボートを緩慢と漕ぐ僕を見て彼女は面白そうに笑っている。
コートを返してもらおうか、等と思ってしまうが、どうせ厭だと云って返してくれそうに無い
ので温和しくボートを漕ぎ續けた。
だが流石に氣が咎めたのだろう、彼女は、ねえ、大丈夫?と心配そうに聽いてくる。
「大丈夫さ、口で言うほど寒くないよ。」
僕は強がって笑いながらおどけて見せた。
本當は凍えそうに寒かったのだが、彼女にこれ以上寒い思いはさせられない。
やっと湖の中央まで来ると僕はオールから手を離した。
周辺に他の船影は見えず、二人だけの空間が何處までも広がっているように思える。
ねえ、そっちに行っても良い?彼女は少しはにかみ乍ら立ち上がった。
バランスの崩れたボートは大きく搖れ、水面に落ちそうになる彼女を僕は慌てて
抱き留めた。腰を敷板にしたたか打ち附け、苦悶の声を上げてしまう。
彼女は御免ね、と僕を抱きしめた。
柔らかい彼女の體温が冷え切った心と身體を暖める。
「謝らなくてもいいよ。」
僕は抱きしめ返すと目を閉じた。
緩慢と搖れるボートの上でノクターンに合わせて踊っているようなイメェジが
沸いて来る。
二人の時間が始まるかのように思えた。

だがそんな些細やかな仕合せの時間も長くは続かなかった。
もう、行かなくちゃ。彼女はそう悲しそうに呟くと、僕を強く抱きしめた。
「・・・わかったよ。」
僕は抱きしめてくる細い腕を身體から離すと、指を絡ませて口附ける。
悲しそうな顔をした彼女はもう一度、僕を抱きしめて、消えた。
殘されたのは僕にかけられるように被さったコートと、彼女の流した涙、
そして絡ませた指の温もりだった。

時刻は19時28分。まだ君の姿は見えない。