脳死は死である。此の疑いようのない事実に私は我を忘れて泣き叫んだ。
初めに死の香りというものを嗅いだのは幼少、それも幼稚園に上がったくらいの頃だろうか。
突然病院に連れて行かれて、自分の祖父の死に顔を見せられた。
殆ど記憶がないのだが、薄暗い室内で、大人と居るにしろ、
最早この世のものではない存在と一緒にされた時の心境というものは想像を絶する恐怖感、
それだけだったように思える。
線香の噎せ返るような香りと鼻を突くアンモニア臭。其れが私にとっての死の香りだった。
私は怒りでもなく、悲しみでもなく、唯やるせない思いによって泣き叫んだのだった。
私の目の前には喉を切開されて太いチューブをねじ込まれ、
不細工な酸素の出る鼻輪をつけさせられた最愛の人が居た。
いや、在ったと云った方が正しいかも知れない。存在しているそのことだけでも私には不思議でならなかった。
「ご主人は残念ながら脳死の状態です。」
思っても居ないだろうに深刻で悲痛な表情を浮かべながら2時間と15分前から担当医になった男は云った。
首から下げている聴診器が揺れている。
「運ばれてきたときにはもう意識もなく、危篤状態でした。出来る限りのことはしたつもりです。」
「主人はもう話せないんですか?」
うまく動かない唇を無理矢理剥がすように動かして私は担当医に問うた。
夫の心拍数を数える電子音が部屋の空気を更に重くする。
可笑しなものだ。主人の脳が最早用を為さなくなっているのならば、
主人の心臓を動かしているのは此の赤ん坊ほどの機械なのだろう。
其の機械が生み出した血流で得た心拍を、また機械が数える。
主人の血管は、いや、主人の体はこの機械達が自己の能力を発揮するために利用されているだけではないか。
「残念ながら、もうご主人は話すことも、考えることも、まして立ち上がって微笑むことも出来ないのです。」
どうかお気を落とさずに。担当医はそう言うと、病室から姿を消した。普通ならばそういうことはないだろう。
これからの手続きのことや、何時まで生命維持装置を作動させ続けるか等のデリカシーの欠片もない
現実味のある応答が待っているのだろうが。
何時までも夫の顔を見ている私を不憫に思ってなのだろうか。
それとも、能面のような私の顔に言いしれぬ恐怖感を感じたのだろうか。
規則的に運動する機械の音を聞きながら、私は夫の顔を覗き込んだ。
夫のの血色は思ったよりも良く、頬に触れると生暖かい。微妙に胸が動いているのを見ると、
今直ぐ動き出しそうだ。私は点滴針が打っていない方の腕を持ち上げてみる。重い。
夜中に目が覚めて夫の腕を持ったときと同じ重さが私の手首を泣かせている。
私に楽しい時間をくれた、私に仕合わせを味わせてくれた、私に愛を語ってくれたのに、
もう手も動かせず、話すことも出来ず、私のことを思うことすら出来なくなってしまった。
まだどう見ても生きているというのに。
そう思うと、涙が頬を伝って夫の額に落ちた。何滴も何滴も、流れ落ちる滴は止まることを知らないようだ。
私は主人の髪を掻き上げると、自分の流した排泄物を舐め取った。
何故だろう。
味わったことのない奇妙な味が舌に残る。涙の味ではない、もっと饐えた、もっと現実味のない・・・。
嗚呼。私はリノニウムの床に崩れ落ち、引っかけてしまったチューブが引き抜かれた。
機械達は仕事が邪魔されてしまったことに対して抗議するようにけたたましく鳴り叫ぶ。
慌てた看護婦が夫を囲んで処置をしている。私は・・・笑っていた。
リノニウムの床に這い蹲りながら薄く笑っていたのだ。遅れて駆けつけた担当医は指示を出すことに手一杯で、
私のことなど気にも留めていない。
此の味は、前にも味わったことがあるのだ。あの薄暗い、線香の香り漂う霊安室の中で。
私は壁伝いに立ち上がると、担当医の肩を叩いた。
「もう、いいんです。」
私の唇は先程と打って変わって滑らかに鈴の音を鳴らした。看護婦の一人が私を支える。
ブラウス越しに伝わる看護婦の体温を感じ、私は夫の生ぬるい腕を思い出す。
「どうしてですか?ご主人は死にかけているんですよ?」
この人は、私はそう言いかけたのだが、思い留まり、
「兎に角、もう、いいんです。」
と、いぶかしむ担当医を夫から引き離した。
そんなことをしても無駄なのだ。私は何度も何度も、夫の額に口付けた。
現実離れした甘露を味わうために。死を味わうために。