「そろそろ歸るよ。」
夕闇が太陽を急かし込んで、辺りを緩慢と靜寂の世界に変えようとする頃、
僕は彼女の部屋の玄關に立っていた。
殘念そうな彼女の顔が胸を締め附ける。
仕事が忙しく、殆ど逢えない僕は、やっと休みを取って彼女の部屋を訪ねたのだが、
光よりも早く時間は過ぎ去り、また明日からこなさなければ爲らない
仕事のために帰らなければならなかった。
後ろ髮を引かれながらドアを開けると、外は霧雨で床を濡らしていた。
外燈が點滅して邊りを照らし出した。
「雨、降っているじゃない。」
彼女は黒地に刺繍の入った傘を僕に手渡そうとする。
だが僕は傘になかなか手を伸ばせずに居た。
其の傘は彼女が至極氣に入っているもので、雨の日にはさも嬉しそうに
差しているものだったからだ。
躊躇する僕の心情を察したのだろうか。
何時でもいいから、と彼女は僕の左手を取ると傘の柄を握らせる。
「でも次逢う日が何時になるか分からないよ?」
すると彼女は遣る瀬無げに俯向いてか細い声で、仕方ないよ、と呟いた。
我が儘を言う彼女が、何時に無く強がっている樣に感じられ、
ややもすれば泣き出しそうな彼女の肩を抱きしめる。
「必ず逢えるから。君を迎えに来るから。」
彼女は項にかかる吐息に擽ったそうに抱きしめ返すと、
シャツを握り締めながら呟いた。
「・・・傘忘れたら絶交だから。」
「・・・頑張ります・・・。」
少しだけ暖かくなった風が僕の肌を撫でた。
空から落下する雫は、肌が濡れたかどうか分からない位細かく肩を打っている。
借りた傘を差そうか、差すまいか。
このまま歩いてゐると濡れるだろうけれども、傘を使うのも何となく勿體無い氣がする。
寸時の思案の後、僕は傘をより細く卷いてステッキ代わりにして歩き出した。
こんな雨なら濡れて歸るのも慝くない。
・・・sweet honey bee・・・
泣くな 愛しのsweet honey bee
ずっと抱きしめていただろう?
そぼ降る雨の朝だよ
そして暫し御別れ 泣くなよ・・・
泣くな 愛しのsweet honey bee
何故故今日は何時もより
強がりばかり言うのかい?
僕の気持ち知っている樣に
今度逢う日は何時になるやら
分からないよ 傘借りても
返せるような 返せないような
そぼ降る雨 春の雨
濡れて歸るよ・・・