玄關から只今、と云う弱弱しい声が聽こえてくると、
レンジに冷め切った夕食を温めるべく、ターンテーブルの上に置いた。
既に時計は零時を切っており、子供達は眠ってしまっている。
結婚してからもう10年は經った。
上の子供は今年小學校に上がって益々子憎たらしく、愛らしくなった。
だがその弊害だろうか、結婚当初のような夫との会話は消え、会話の中心の
殆どが子供の話になって仕舞っている事が、少し私を物悲しくもさせていたのだ。
母は、それが夫婦というものよ、と私を諌めるのだが、理想の生活を捨てきれない自分がいた。
夫は食事を終えて寢室に向かった。明日はまた早いのだから仕方無いのかも知れない。
しかし最近悲觀的になりがちな私は
「ねえ、話したいことがあるの。」と偸閑に疲れた肩に向かって云ってしまった。
それを聞いて夫は力無く「ああ」と応えたきりで、それから寢室の音が消えている。
恐らく眠ってしまったのだのだろう。
半ば諦観ながら食器を洗滌機に入れて寢室のドアを開けると、私の心臟は激しい不整脈を起こした。
サイドランプに照らされて、夫がベッドに腰かけて此方を見ているではないか。
「何よ。」
思わず後ずさりしながらとっさに云うと、
「それはこっちの台詞だろう?」
と、夫は眠そうな瞼を必死に開けながら私を注視た。
夫は全く変わらない。私は歳を追う毎に老け込んでいっているような氣がするのに。
「ねえ、最近私達、何か御話したかしら。」
夫の横に坐りながら、そう声をかけてみる。
夫は暫く考えると、子供の話かな、とぽつりと言った。
矢っ張り。
耐え切れなくなった思いが關を切って溢れ出た。
私達は子供の咄しかしてゐないのだ。話題の中心を子供に攫われて、
私たちの關係を子供を通してしか觀られなくなって仕舞っているのかも知れない。
「子供の話は大切よ。でもね、私は貴方の話も聞きたいのよ。
別に詰まらない咄でもいいの。貴方が仕事で何をしたとか、こんな事があったとか、
そんな些細な咄でもいいのよ。子供の話ばかりじゃあ厭。
少しは聞かせて。昔のように。」
私は機關銃のように捲くし立てる。
すると夫は困った顔をして、親指で何時の間にか流れた涙の後を拭った。
「何よ。」
「あのさ・・・子供の話を振るのは、何時も君の方じゃあないか。」
「・・・え?」
「僕が何かを話そうにも、言葉を遮って君が何時も子供の話を話すだろう?」
初めは夫が何を云っているのか全く理解出來なかった。
だがよくよく思い起こして見ると、慥かにそうだったかもしれない。
項垂れる私を慰めるように、夫は腰に手を回して抱締めてきた。
「今度から勤めて話すようにするよ。厭な顔しても話すけれども、良いかい?」
私は頷くと、夫に体を預けた。
そういえば夫の白髮が増えたのかもしれない。サイドランプを消そうとする
夫の髮の毛は少し透けて見える。それに顔の皺も増えた。
何も見ていなかったのは私の方なのだろう。
「御免ね。」
「分っているさ。」