いよいよ此處を出るときが來た。
住み慣れた部屋から全ての私物が運びだされると余所余所しく感じるのは如何してだろうか。
部屋を見まわせば誤って傷を付けてしまった壁が目立つ。
心も傷だらけだ。
僕は苦笑いを浮かべながら爪で傷を隠すと、別れの挨拶をするために部屋を出た。
「姉さんダンヒルライト2つ。」
小さな煙草屋の窓に向かって声を掛ける。
すると硝子窓が音もなく開き、ダンヒルライトが二つ白く細い指先と共に出てきた。
夕陽に透ける白い肌はサテンのように肌理細かい。
「今日も顔を見せてくれないんだね。」
「当たり前でしょう?これでも美白には苦労しているのよ。」
軽口で返す彼女は囀る。
陽光の下から薄暗い店内を覗き見ることは難しく、偶に長い黒髪がカートンの白に映えて見えるだけで
顔を見ることは到底出來そうにもなかった。
そんな彼女の姿を僕は二度見た事がある。
それは大橋の上で眉目良い男性から指輪を貰っている所と、泣きながら指輪を川に流している所だった。
黒目がちな眸から涙を零す彼女がとても愛おしくて、つい抱き締めたら張り倒された。
其れはそうだろう。煙草屋の客に突然抱き締められるなんて。
だが次の日から明らかに対応が違っていた。
こんな軽口を叩くようになったのだから。
「ふうん、引っ越すの?」
彼女は驚いた風でもなく、僕に問い直した。
僕は何時ものようにカウンターに肘を乗せながら車の往来を眺めている。
「もう荷物は運びだした後でね。後は僕が新幹線に乗り込むだけなのだけれども。」
「・・・え?近場じゃあないの?」
「・・・東京、なのだけれども。」
川の向こうにでも引っ越すものだと思われていたのだろうか。
何も云わなくなった煙草屋の窓と,彼程流れていた車がゐなくなってしまった車道が
気不味い沈黙を以て煙草屋を支配している。
「別にずっと逢えない訳じゃあないし、2時間かければ煙草だって買いにこれるさ。」
冷や汗をかきながらそういうと、店の奧から小さな笑い声が聽こえて來たので
僕は安堵の胸を撫で下ろした。
なんだ、思い違いか。
それじゃあ、と僕は煙草代を取り出すと、窓に差し入れる。
「次ぎ此處に来る時は奇麗な花嫁を連れてきなさいよ。」
そう云うと彼女はつり銭をトレイに入れて僕に返した。
「姉さんよりも美人なんてそうそう連れてこられないよ。年下の姉さん。」
僕は紙幣を受け取ると煙草屋を足早に立ち去った。
彼女の涙で濡れた紙幣が、酷くコートの中の手を冷たくさせた。