薔薇十字館

彼方の約束。
モエ・エ・シャンドン社

「明日、ここから発つの。」
と彼女はかわいげのない顔のまま僕に告げた。
僕達は微昏い照明と大きな換気ファンが回るワインバーにいた。
彼女は遥々遠いところから僕を訪ねてきてくれたのだが、
何のために僕を頼ってきたのかがさっぱり領らなかった。
偶偶遊びたいところが此處だったから、とは彼女の弁だが
時折見せる寂しそうな表情が僕の心に引っかかった。
「そう。」僕も無表情な象牙色の皮膚を摩りながら答える。
「・・・冷たいのね。」
彼女は手にしたオレンジ・ブロッサムを飲み干すと、ドリンクリストに目を向けた。
冷たい?冷たいだって?勝手に來たのは君じゃあないか。僕には関係のないことさ。
そう反論しようとした時、リストを見ている彼女の目から
透明な体液が流れ落ちるのを目撃してしまった。
「如何したんだい?」そう聽きたかったのだがあまりにその涙化粧が
彼女の美しさを際だたせていたので思わず見蕩れてしまう。


「私達、約束したの、覺えてる?」
リストを置き、そう告げる彼女の目には涙の跡がついていたが
その美を誇る完成された旁に曇りはなかった。
いや、それよりも僕を驚かせたことは約束、と言う言葉だった。
僕達はほんの一時期、そう、一ヶ月と満たない期間甘い時を過ごした。
付き合うことになったのも、別れることになったのも彼女からだった。
彼女の性分なのであろうか。まるで猫のようだ、と褒め称えたくなるほど
愛想がなく、それでいてほんの気まぐれのように甘えてくる、そういう女性だった。
引切なしに電話がかかってくることもあれば、ぷっつりと連絡の来ない時期もあった。
そういう性分の彼女であるから約束などするはずがなかったのだが・・・


「やっぱり忘れているのね・・・。」
寂しそうに微笑む彼女の丹朱は白い粉雪の中に四散した人間の血をイメェジさせた。
「初めて私が仕事をもらったときのことを覺えてる?」
彼女はドン・ペリニヨンを頼むと透き通った目で僕を見た。
初めて仕事をもらったとき・・・。


そう、彼女が仕事を始めてもらったとき、彼女の部屋で細やかな二人だけの祝賀会を開いていた。
お互い給料の安い仕事をしていたので対したことは出來なかったのだが、
月並みなシャンパンを買い、チキンとケーキを用意していった。
僕がモエ・エ・シャンドンをフルートグラスに靜かに注ぐと、
甘酸っぱい果実臭が漂ってきた。
「初仕事に。」ティン、とグラスを鳴らす音が狭い部屋に広がる。
グラスの中で沢山の硝子球が上へ上へと上っていく。
テーブルの中心には燭台に立てられた三本の蝋燭が周辺を微昏く照らしている。
「この仕事から私の人生は始まるの。」と彼女は嬉しそうだった。
このときに約束をしたのだろうか。
あの頃の、髪の長かった頃の彼女と今の彼女の容姿が交互に頭に上ってくる。
約束・・・約束?

「ああ・・・。」観念したように僕はため息をついた。
「やっと思い出してくれたのね。」彼女は悲しそうに僕を見る。
「あのとき私はこういったわ。私がモデルになれたなら、あなたの人生を私に頂戴って。」
僕は当時、この約束を冗談だと思っていた。だからその時は
「僕が君の奴隷になったら奴隷番号は何番がつくんだい?」と軽くかわしていた。
そうか、本気だったのか・・・。
「でも、もういいわ。あなたには私よりも大事な人がいるんでしょう?」
僕は何も云わずにグラスを彼女の方に掲げた。彼女もそれに気づき、僕に柔順う。
・・・さようなら・・・。

偶然雑誌を買ってみると、彼女は僕にいつもはけして見せない笑顔を振りまいていた。
「この娘可愛いね。・・・そういえば最近よく見ない?」
と、僕の最愛の人が云う。
そうだね、と僕は苦笑いをしながら返す。

愛する君。君は知らない處でこの娘と争っていたんだよ。

僕の手には、彼女の好きだったモエの泡がゆっくりと上がっていた。

ORANGE BLOSSOM

オレンジ・ブロッサム


ドライ・ジン2/3、オレンジ・ジュース1/3をシェークしてカクテルグラスに注ぐ。
これがオレンジブロッサムのレシピである。

禁酒法時代にピッツバーグ市で、ビリー・マロイ氏により創られた。
FBI捜査官に踏み込まれても、オレンジジュースで通せるように考案したという。
オレンジブロッサムとはオレンジの花、と言う意味で、花言葉が「純潔」。
その為、欧米では結婚式のパーティにこのカクテルを出すことがある。

ある女性が自分とこのカクテルを引っかけて皮肉を言っていたのを良く覺えている。

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