薔薇十字館

剥がされたエチケット


ドン・メルチョール

一二畳ほどのワンルームは閑散としていて味気がなかった。
部屋の中にあるものといえば、プロジェクターと銀幕、丸いテーブルに
僕達二人が座っている椅子のみだった。
「今日ここに來てくれたのは他でもない。このワインを引きとって欲しいんだ。」
僕の目の前の男は間接照明によって浮かび上がった彫りの深い顔のラインをなぞりながら
云った。僕は不信がりながら咄を促す。
「僕は明日、僕のこれまで生きてきた人生の中で一番の苦しみから解放されるんだ。」
「なんだいその苦しみとは?」
「君には教えてあげないよ。」
彼は金持ちに多く見られる「備わった傲慢さ」でもって僕を威圧した。
だが、僕にとってそんな態度はいつものことなので、怯むことなくこの世捨て人に挑む。
「僕達は10年来の友達じゃあないか。それでも教えてくれないのかい?」
「そうさ。君にも教えない。友情号とは、天気の良いときには人を二人乗せることが出來るが
天気の悪いときにはたった一人しか乗せることのできない、
そんな程度の大きさの船を指して云うんだ。」
おいおい、僕達は別に喧嘩している理由じゃあないだろう、と思いながら目の前の
忌ま忌ましくも頼りになる友の話を聞いている。
「このワインは謙譲の美徳を発揮するまでもなく、貞操保持を余儀なくされる、神々が
ある種の女達に与えたもう贈り物を、数ある災難の中で、
最初に訪れる尤も恐ろしい災難の時に餘計にもらってしまった女から
貰ったものなんだ。」
「へぇ、それじゃあこのワインはすこぶる不味いものだというのかい?」
出來るだけ彼の言葉を簡潔に表現して返すと、友は酷く厭な顔をして、
「何故君はそう、言語のレベルを下げるようなことを云うんだ。」
と云った。
「僕は君の捻くれた辞書のような発言をこの世に受け入れやすいように
解体して差し上げているまでさ。」と笑いながら答える。
「まあ、いいじゃあないか。とにかくこのワインを引き取ればいいのだね。」
「出來れば今、此處で引き取って欲しい。君の胃袋の中に。」
「・・・初めから飲めと云ってくれればいいじゃあないか・・・。」
僕は最近常備しだしたソムリエナイフをポケットから出すとコルクにスクリューを押し込んだ。
友はキッチンから大ぶりのワイングラスを用意しだしている。
「エチケットが剥がされているけれども、君はどうやらこのワインが何かを知っているようだね。
僕がそういうと、今日初めての笑みを浮かべながら、そうだ。とぽつりと漏らした。


グラスに紅い液體を注ぎ入れる。
偶にはねた滴が自分の濃密さを主張しながら垂れていく。
「それじゃあ、戴くとするよ。」
色はローズレッドからルビー。薫りは濃縮したカシス。
味は・・・。
「何だ!このワインは!?」
僕は驚きを隠せなかった。何故ならば味わいがあまりにユニークだからである。
「不思議な味だ。・・・太陽の味がする。」
友も驚いたらしく、そのようにコメントを漏らす。
「さわやかな喉越し、だけれどもフィニッシュが長い。とても生き生きとしている。」
僕達は次々と杯を重ねた。一杯ずつに様々な言葉を並べながら。
何時の間にかワインの瓶には一滴の液體も残っておらず、幸福感が僕達の中に残った。
「なあ、これは何というワインだったんだい?」


この時僕が訊ねても、友は只、微笑むだけだった。
懐かしむように。


この後、友からエチケットを葉書にしたものが來た。
そこにはこう書かれていた。
「僕は一人の女を傷つけた。そして僕は癒された。」

僕は弱々しくエチケットを投げると涙を流した。
そして、警察に電話をかけた。


矢張り友は海に飛び込んでいた。
あの女が沈んだ海に。


友が女の事を愛していたのか、それは領らない。
残ったものといえば
友が後追い自殺したという事実と
「DON MELCHOR」と書かれたエチケットだけだった・・・。


海・・・人間のために創られた、
世界のおよそ三分の二を支配する大きな水の広がり。


ただし、人間にはエラなるものがない。

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