薔薇十字館

何時の間にか、待ってる。


クロース・ネメア

世の中には沢山無駄なことがありますが
恋愛ほど無駄なことはございません。
自分自身については何も知らないうちに、他の者について多くを思うという愚考なのですから。
妾?妾ゃソンナ、恋愛なんて柄じゃあありません。


でもとっておきの話があるんですよ。まあ、聽いて下サイよ。


妾ゃ昔、昼間は喫茶店、夜は酒宴場になる處で働いていましてね。
毎日、それはそれは勤勉に働いていました。
妾ゃこう見えてもお酒に目がなくってね。
お酒と聽けば客の酒でも飲みたくなるくらいナンですよ。
そんな妾だから、6日真面目に働いたら7日目にお酒を飲もうと決めていたんですよ。
ビールにブランデー、カクテルにスピリッツ・・・勿論ワインも飲みました。
まあ、若い頃のことですからね。よく飲んだものですよ。
何時も飲むときはお店の中と決めていました。
皆が働いているときに妾だけお酒を飲む優越感を味わいたかったからです。
そんな風に一定の日に店に飲みに行っておりましたので、
まあ店の常連客の中にも飲み仲間が生まれるわけです。


店の中に出來た飲み仲間に降旗さんという、それは生真面目な日本人がいました。
降旗さんは貿易会社に勤めている人で、2箇月見なかったかと思うと店に入り浸ったり、
とまあ、出張の多い人でした。
ある日、私が7日目の幸福を味わっているときにその降旗さんが店にいらっしゃったんですよ。
やけに深刻な顔をしているから妾ゃ如何したんです、そんな怖い顔で、と云ったんですよ。
すると降旗さん、妾の隣に孤座って、こう云うんです。


結婚してくれないかって。


妾は一瞬ぽかあんと口を開けてしまいました。だって、急じゃあありませんか。
すると降旗さんは、いやいや、只の冗談ですよ、と笑いながら云うと、マスターに
ウオツカを一杯。と云い、矢張りウオツカはスミノルフでなくては、
と独白のように云っていました。
全く、人が悪いじゃあないですか。突然結婚の話を告げておいて、冗談にもほどがあります。
そう抗議すると、降旗さんはああ、悪い悪い、と悪びれた雰囲気も見せずに
ショットグラスに注がれたウオツカをぐい、とひと飲みにしました。
いや、米山さん、女性の方に結婚の話を振るとどういった反応を示すのか
見てみたかったのですよ。と降旗さんが注文をしながら云いました。
妾は別に降旗さんのことを気にかけていたわけじゃあございませんでしたから、
ああ、変わったお方だなあ、と思っていただけだったのですが、こんなに変わっていようとは
思わなかったのです。


實は、まともに話したことのない女性に婚約の言葉をかけようと思っているんです。
降旗さんは淡々と私に語り始めました。
どうやらお相手は同じ会社の人のようで、毎日お茶をくんでくれる方だというのです。
デートにでも誘えばと、そう思ったことも度々だった様なのですが、
店とは違って實は奥手な性分らしく、
こういった像で決着をつけようと、こう思ったようなのです。
頑張っておくんなましよ、と妾は元気づけてやることしかできませんでした。
こんなことじゃあ女性の良い返事など聞けるわけが無いと思ったからです。
ですが降旗さんはよほど元気付いたらしく、有り難う、米山さん、と私の手を
思い切り強く握って店を出ていきました。
やれやれ、と思っていたのですが、それから数週間経ってから私が働いているときに
降旗さんが浮かれた調子で店に來たのです。
どうやらお茶汲みの君を射止めたらしく、米山さんのお陰だよ、と
妾の顔がはずかしくッて真っ赤になるまで大声で謝辞を並べ続けました。
でもよく射止めたものね、と聽いてみれば、
實は向こうも自分のことを好いていたらしく、話は素早く進んだそうです。
はあ、そんな作り話のようなこともあるんですねぇ、と呆れたため息混じりにいうと、
いやいや、それは米山さんが、といい出すので妾ゃ恥ずかしくって紅くなる前に早く
黙らせようと思って今日は何を飲むか聽いたんです。
すると降旗さんは、このワインはね、僕が希臘に行って飲んだワインなのだよ。
と云いながら鞄を開けると一本のワインをテーブルの上に出したのです。


ラベルには「クロース・ネメア」と書かれていました。


米山さん、一緒に今から飲まないか、といわれたので、他に客もいないし、
ええ、喜んで。店長には黙っておきますよ、と妾はグラスを二つとソムリエナイフを
降旗さんのテーブルに持っていきました。
降旗さんは、米山さんには勝てないな、といいながらワインの瓶を差し出しました。
妾はワインのコルクを抜き取ると、グラスに注ぎました。
苺のような薫りがグラスの中で広がります。
溌剌としていて美味しいのねぇ、と感想を漏らすと、
米山さん、ソムリエみたいなことを言うんだね、と笑われてしまいました。
何もそんなに笑わなくッてもいいじゃあないのさ、と悔しくってすねてみたり、
冗談を言い合ったり・・・。
そりゃあ楽しい思いをさせていただきましたよ。

と、これで私の話は終わりです。
話に落ちがないって?
ああ、そうそう。少しだけ、話に續きがあるんですよ。
もうすこしして、降旗さんは結婚されました。
今は希臘の首都アテネで結婚生活を送っているようなのです。
降旗さん、妾に感謝しているらしくって毎年毎年クロース・ネメアを送ってくるんですよ。
でもネェ、妾はそのワインを一本も飲んでいないンですよね。
一人で飲んでも、あの時ほど美味しく感じられないと思いますからね。

堪能する