薔薇十字館

恐らく最初の我が儘。


フォン・ド・ケーブ

「ねえ、まだ出來ないの!?」
彼女は臓躁的に叫ぶと僕に手に持っていた雑誌を投げつけた。
僕は、さっき作り始めたばかりだろう?出來るわけ無いじゃあないか、と
落ち着かない彼女の態度を小馬鹿にするようにゆっくりとのたまわった。
全く・・・彼女は何時からこんなに我が儘になったんだろう?と密かに考えてしまう。


そういえば、彼女は昔から自分勝手な女だった。
僕達の出会いは大学のコンパ、という何とも簡単な出会いだったが
迫ってきたのは彼女の方だった。
「どうせ彼女、いないんでしょ?」
と痛いところをつきながら、次の日にはもう僕の部屋に遊びに来ていた。
そういえばあの時、彼女はワインを持ってきていたような氣がする。
あれからもう5年たつのか。お互い就職もしたんだけれども
あのワインは・・・。


「いい加減出來上がってもいいでしょう!?」
しまった。考え事をしている間、手を休めていたらしい。
「悪い。」
僕は左手のスナップを利かせながら銀色の炒飯を作り出す。
彼女は炒飯が好きだ。しかも香辛料が利きすぎるくらいかけたものを好んで食べる。
それでも辛い、辛いと云うからたまらない。
そういえばあの時初めて作ったのも炒飯だったっけ・・・。
あの時僕が作った炒飯を見て「凄い・・・もう私あんたについてくよ。」
と笑いながら云っていたものだ。
料理長としてついて行かされているような氣がする、
そう思ったらつい笑いがこみ上げてきてしまった。
「何、笑っているのよ。」
彼女はスプーンをくわえたまま僕の方を睨んでいる。
「いや、あの時飲んだワインは何だったかなあ、とおもってさ。」
「あの時って?」
「初めておまえが遊びに来たときだよ。」
彼女は僕を、まるで気の狂ったアラブ人を見るような目つきで見ると
「何か、心情の変化でもあった?」
と聽いた。どうも彼女は僕のことを記憶力のない痩せぎすの料理長と本気で思っているようだった。
「いいよ、もう。」
僕はふてくされると目の前にあった彼女の炒飯を奪い取ると、口の中に詰め込んだ。
「何すんのよ。」
「復讐。」
「この・・・!」
僕達は暫くじゃれあった後、あの時のワインについて話し合ったが結局領らずじまいだった。


あのワインは何だったんだろう?
別に大したワインじゃあなかったことは覺えている。
だが、普通の日常消費ワインにはない深み、柔らかい渋みは
僕の心の中にしこりを殘したままだった。


そして数日後、彼女の呼び出しで僕は小洒落たワインバーにいた。
いつもの通り、待ちぼうけを食らっているのだが、今日はあまり苦痛を感じない。
マスターがサービスしてくれたシガーのお陰であることは領っているのだが。
もう一杯、グラスワインを頼もうとした處で彼女はやってきた。
「待った?」とありきたりな会話を交わし、彼女は席につく。
何で此處に呼び出したのか?という問いをかけようとすると、
「五月蠅いわね。」と一喝された。
「まだ何も云っていないだろう。」
「そういうところが五月蠅いのよ。」
僕は両手を肩まで挙げて、やってられないぜ、といったポーズを取った。
「あのワインが領ったのよ。」
そんなことはお構いなしに彼女はマスターにワインの名前を告げた。


ワインの名前は「フォン・ド・ケーブ」。


「このワインはトラピチェ社の秘蔵っ子なんですよ。」
サービスをするマスターはにこやかに解説してくれた。
「ペニャフロール社の一個上のブランドでね。
あのミッシェル・ロランがコンサルティングしているんですよ。」
ごゆっくりどうぞ。と、マスターはワインをグラスに注ぎ、別の客へのサービスに移る。


「これか・・・。」グラスの中では紅い液體が踊っている。
グラスを傾けると、生き生きとした果実味がのどを潤した。
「よく分かったな。これ。」
「まあね。」
誇らしげに薄い胸を張る彼女は間接照明の中で少しだけ色っぽく思えた。
靜かに流れるジャズピアノが僕達の間に流れる。
グラスを回すごとに僕達の時間も回っているような感覚になった。だが・・・


「私、結婚しようと思っているの。」


今まで暖かかった店内がワイン・ケーブに変わった氣がした。
そうか、だからわざわざワインを探し出してきたのか・・・。
喜ばせておいて、これかよ。
「だ、誰と結婚するの?」
「ふふふ、今、どきどきしてる?」
「も、勿論さ。」
動揺を隠せないまま、僕は彼女の薄く引いた紫のアイラインを注視た。


「あんたとよ。」
「・・・え?」
「もう、私達5年よ。そろそろ私達も熟成を終えて、ケーブから出てもいいんじゃない?」


笑った顔が、愛おしかった。

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