薔薇十字館

惡魔の酒


シャトー・ムートン・ロトシルト
カッシェロ・デル・ディアブロ

その家族はとても奇妙な家族だった。
家庭教師斡旋所で斡旋された僕は息子の受験が終わるまで、という約束で
その家族の住む家に行った。
其処の家族は女手一つで子供を育ててきたらしく、受験生の息子と
社会人の娘がいるそうだ。
初めての家庭教師でかなり緊張していたのだが、その緊張がピークになったのは
その家に行ったときだった。


「凄い・・・。」
僕は一言そう呟くしかなかった。その家族が指定した住所には屋敷、と称ぶに相応しい
門構えの家が広がっていたからだ。
正直な氣持ち、此處の家庭教師を遠慮させてもらおうと思ったのだが、
電話越しの受験生の母親の聲が妙に色っぽかったので、顔だけ見て歸っても
さして問題あるまい、と思い直した。
僕は鉄格子の門を右手で開けると、重厚な木製の扉についた鉄の呼び戸を叩いた。
暫くすると、ぎい、という音と共に扉が開き、中の樣子が見て取れるようになった。
中央にある二階へ昇るための恐らく楠の階段、豪華な調度品、それら全てが
僕の予想を完全に凌駕しているほど素晴らしい光景が広がっていた。
灯された蝋燭の炎が風に揺れている。
「ようこそおいでまし。」
突然女性の声が広い屋敷の中に木霊した。


ぎょっとして聲のした方を見ると、誰か、いた。微昏い照明があるにも拘らず、
照明の死角の中に、誰かいたのだ。
その女性は陰から僕の方に進み出ると、にこりと笑い、
「この屋敷の主人の金原真理子です。」
と云った。薄い唇に引かれた深紅の口紅が、僕を誘っているような錯覚を起こしてしまう。
「あっああ、谷崎です。」
僕の緊張は解けない。前よりも緊張しているくらいだ。
女主人は僕の心情を読みとっているらしく、先程と同じ笑みを浮かべたまま
此方へ、と僕を応接間へ案内した。
ガスではなく、薪をくべる型の暖炉のあるその応接間には、大きな革張りのソファが
二つと波斯絨毯が敷いてあり、部屋の中を重厚にしている。
金原さんは「息子を呼んできますから、一寸待っていて下さいまし。」と云って
奥の部屋の方に消えた。
こんな大きな部屋に一人殘された僕は、大きな応接間の中で小さくなっているしかなかった。


間もなく金原さんは息子を連れてやってきた。
「息子の忍です。」
真理子婦人の隣には背の低い、だが母親に似た目の大きい黒髪の・・・娘?
息子じゃあなかったのか?僕は自分の目を疑った。
「忍です。宜しく。」
声も高く、如何見ても女性にしか見えなかった。
「息子さんじゃあ・・・」
「息子ですわ。ねえ、忍ちゃん。」
「勿論さ、ママ。」
どうも腑に落ちなかったが挨拶を交わし、契約を交わす。奇妙な違和感を殘しながら。
「お食事をご一緒にしようと思うのですが、如何です?」
真理子婦人は僕にそう笑いかけた。
もう少し此處にいたいと思った僕は、その申し出を了承した。


全くもって素晴らしい晩餐だった。
本当にこの女主人だけで作ったのか、と思うくらい豪勢で美味しい。
あけられたワインもまた素晴らしかった。
凝縮した果実味と、茶褐色の液體は僕を魅了する。
グラスに映る真理子婦人と忍君の顔が揺らめく。
このワインは何というワインなのですか、と聽くと
シャトームートンの86年ですよ、と軽く答えられた。
何ということだ、一本10万円だ、と僕は今まであけていたグラスを見つめ直した。
一本10万円と聽くとついワインにむく手が止まってしまう。
「あらあら、ご遠慮なさらなくても。」と云ってくれるのだが、
とてもじゃあ無いがグラスに優雅な液體を注ぐことは躊躇われた。
「それならば此方を飲まれればよろしいんじゃあなくって?」
出されたワインは若々しく、熟成を經ていないものだと領る。だが・・・
「旨い!」
恐らく日常消費ワインなのだろうが、併せて出されたレッドチェダーとの相性が最高だった。
僕はまたペースを持ち直し、次々とグラスを空けていった。


何時の間に眠ってしまったのだろう。僕は暗い部屋の一室にいた。
ベッドのクッションが心地よかったが、流石に眠ってしまうのは失礼か、と思い、
体を起こそうとするが、動かない。腕脚が動かないのだ。まるで金縛りにあったように。
「誰か。」と叫ぼうとしたが、掠れた聲で弱々しく虫が囁くような声しか出なかったので、
僕はじっとしているしかないように思えた。
その時、「うふふ。」というかすかな笑い声がしたような氣がした。
誰かいるのか?
やっとの事で首を動かすと、其処には真理子婦人の息子である忍君が椅子に腰掛けていた。
「忍君」僕は声を絞り出すと、彼に助けを求める。
すると彼はベッドの處まで來て、僕の顔をのぞき込んだ。
「谷崎さん、待っていたよ。」
「何をだい?」
「谷崎さんが、僕を抱いてくれるのを。」
彼は裸だった。少女のような顔を持った少年の躯が蝋燭の灯に
僕は混乱した。何を云っているんだ、この少年は。僕はこの少年の家庭教師だし、
まして僕は男だし・・・そんなことを考えている間にも、僕は小さな惡魔によって
服を脱がされていく。最後の一枚を脱がされたとき、とうとう僕は
彼にのしかかられてしまった。
「忍君、止めなさい。」と叫ぼうとするが、彼の丹朱に塞がれてしまう。
ぬめぬめとした彼の舌が僕の口腔を官能的に行き来する。
その舌技に僕は応じるわけにもいかず、されるがままになってしまう。
暫く濃厚な愛撫が続いた後、彼は僕の胸板に舌を這わせた。
上気した頬を僕の皮膚に寄せる、その行爲に僕は倒錯感を覺えながら
ずるずると深みにはまっていく。
彼の舌が僕の下半身をまさぐった時にはもう僕は相手が男であることなど忘れていた。


僕は・・・。


気づいたときにはもう、彼は消えていた。時計を見ると8時を指していた。
どうやら彼はもう学校に行ってしまったらしい。
サイドテーブルを見るとデキャンタに紅い水が注がれていた。その隣にボトルと
ワイングラスが置いてある。
ボトルには「カッシェロ・デル・ディアブロ」と書かれている。
カッシェロ・デル・ディアブロ・・・。
そう、慥かこのワインはコンチャ・イ・トロ社が持つワイン。
盗難を防止するためにつけられた名前。
意味は、「惡魔のセラー」・・・。
あの時飲んだ2本目のワインはこれか。
僕は昨日の夢のような出來事を思い出しながらグラスに注いだワインに口を付ける。


・・・甘美だ・・・。
どうやら僕はこの館から逃れられなくなったらしい。
いや、館と云うよりも、あの小さな惡魔の方に・・・。

堪能する