薔薇十字館

私の心は何時もあなたに。


シャトー・カロン・セギュール’90

私は久しぶりに実家に歸った。
別に実家に歸る気なんて無かった。歸っても口うるさい母親と
勝手に家を飛び出した私に「早く家に戻れ。」としか云わない父親しかいないから。
でも私は歸ってきた。後悔をしたくなかったから。
飛行機から降り立った私は空港から出ているバスに乗る。
バスは故郷に向かって走っていった。早く、会いたかった。


僕は涼子からの電話を受けて、昔行き馴染んでいたバーのカウンターにいた。
涼子・・・彼女とは十年来のつきあいだった。
僕が女の子に振られたときには慰めてくれ、彼女が「男心が領らない」といったときには
相談に乗ったりしていた。気のおけない友達とはこういうものなんだろうな、と思える
婦だった。少し赤茶けた長い髪と切れ長の右目にある泣き黒子が印象的な婦だった。
突然歸ってくるとは如何いうことなのだろう。
僕はいぶかしみながらも二杯目のグレンリベットを注文した。


私は久しぶりに並木通りを歩いていた。
近くにある海から吹く風が頬に当たり気持ちがいい。
繁華街の中にある小さなバーを目指して私は歩いた。
親よりも早く、会いたかった。薄い唇を持つあの人に。
晃司はいつもその薄い唇で煙草をくわえていた。
紫煙を吐き出す丹花からは私の事を本気で心配してくれる優しい言葉が
何時も流れていたような氣がする。
私はバーの木造の扉を開くと、晃司の容姿を捜した。


ぎい、という音が店内に響いた。僕は扉の方を見ると、ゆっくりと手を挙げる。
涼子だった。4年前に見たときよりもずっと綺麗になっていた。
化粧が巧くなったのか、それとも本当に綺麗になったのか。
ロングヘアの面影はなく、ショートボブになっている。
一度切ってみれば、と勧めたのもこのバーだったが、彼女は
「私はこの髪がいいの」といって聽かなかった。
僕は隣の椅子を勧める。涼子は椅子に座ると、ギムレットをマスターに頼んで
にっこりと僕に笑みを漏らした。
「久しぶりね。」私は何も変わっていない彼に微笑みかけた。
黒い髪、片耳にあけたピアス、薄い丹花。何も変わっていない、あの頃の晃司のままだった。
「どうしたんだい?突然歸ってきて。」
「何でもないわ。ただ此處の潮風に当たりたくなっただけよ。」
「そう・・。」
彼は煙草に火を付けた。昔と同じ、金色のラインの入った煙草に。
暫く近況を話し合った後、私は歸ってきた本当の理由を話し始めた。
「ねえ、晃司。貴方彼女とか、いるの?」


彼女の突然の言葉に僕は戸惑った。
「何でそんなこと、突然聽くんだい?」
「ううん、いいから。」
目を細めながら云う彼女を見ていて、僕は帰ってきた本当の理由を感じ取ってしまった。
彼女はいつも思うところがあると目を細める。昔から変わっていない癖だった。
「結婚、するの?」
彼女は驚いたような、泣きそうな顔をすると、そうよ、と云った。


私は彼の言葉を聞いて晃司には嘘は付けないと改めて思った。
彼は私のことを知り尽くしているのだ。4年経ってしまった今でも。
「場所を変えようか。」私はそう提案した。此處にいると昔を思い出しすぎるから。
バーを出ると冷たい風が海の方から吹いていた。
私は近くにある公園の方に彼を誘う。
酒精で染め上がった皮膚にあたる風の冷たさと、郷愁が私の心を撫でる。
「さっきの質問、如何なの?」


僕は「いるよ。再来月に結婚する。」と正直に答えた。
嘘を吐いても仕方がない。でも彼女に告げるのは躊躇われた。
彼女は僕の言葉を聞いていないのか、ブランコに乗ってゆっくりと漕いでいる。
髪の毛がゆっくりと揺れている。暫くして彼女は口を開いた。
「私、この前プロポーズされたの。」
それで戻ってきたのか。僕は自分の予測が当たったことについて妙に腹立たしかった。
彼女も結婚するのか。そう、か。
「まだ、私考えてるの。今結婚してもいいのかなって。」
「結論は出たの?」
僕はおどおどしながら聽いてみた。何故僕がおどおどしなければならないんだろう?
「決めてもらおうと思って。晃司に。」
私は思いきっていってみる。いつもならばすぐに答えを返してくれる彼が
なかなか返答してくれない。私は少し、安堵した。領らないけれど、安堵してしまった。
「結婚・・やめなよ、と云いたいんだけれども・・・御免、僕には云えないよ。」
何が御免なんだろうな、と彼は苦笑しながら遠くに光るビルの明かりを見ている。
そう、か。御免なんだ。私はその言葉だけで十分だった。
彼も、私も恐らく同じ気持ちなんだろうから。


僕は彼女を空港まで送った。あの後彼女はにっこりと笑って飲み直す、と僕を引っ張り
3件のバーを梯子した。翌日は酷い宿酔いだったが苦痛だとは思わない自分を見ていた。
出発時刻が間近になると、彼女は小さなバックを持ってカウンターをくぐろうとした。
「待って。」
僕は彼女に綺麗にラッピングしたボトルを渡すと手を振って送り出した。
彼女は泣きそうな顔をするとまた故郷を去っていった。
泣き黒子が、印象的だった。


彼から渡されたワイン、昔故郷を飛び出したときにも渡されたボトル。
「カロン・セギョール」
あの時彼はこう云っていた。
「僕がこんなワインを渡すのは変だと思うんだけれども、涼子にあげるよ。
ハートマークのエチケットの由来、知っているだろう?
ド・セギュール侯爵がラトゥールやラフィットの畑を持っていたのに
どの畑を愛しているか、と聽かれたときに
私の心はいつもカロンにある、といった事。
僕達は恋人同士じゃあないけれど、僕の心は何時も君にある。
心配させるんじゃあないぞ。」と。
あの時飲んだカロンセギョールの味はとても甘かった。
このボトルはどんな味がするんだろうと思ったとき
私の眸は涙で濡れた。

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