薔薇十字館

絶対的な自信。


ヴーヴ・クリコ ラ・グランダム’89
注意・この文中に出てくるヴーヴ・クリコ ラ・グランダム’89を館主は飲んだことがありません。
ワインに對する描写が間違っていれば此處で謝罪します。

「いらっしゃい。」
いつものように私はカウンターに座ると日替わりのグラスワインを注文した。
此處のグラスワインは余り知られていないけれど上質なワインを
マスターが選んで出していた。私は何時もマスターの舌に驚かされながら
此處の店のグラスワインを飲んでいた。
「今日のワインはホベン。スペインのワインですよ。」
マスターはそういうとグラスを差し出した。
やや濃厚な紅いワインの入ったグラスを私は口に近づけた。
美味しい。煙草のような薫りが口の中で広がる。
いつもならばグラスワインの咄に花を咲かせるのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。
外で降っている雨の音がちりちりと聽こえてくる。
いよいよ、かぁ。


落ち着きのない私の樣子を不審に思ったのか、マスターは
「今日は如何したの?何か落ち着きがないみたいだけれども。」
と聽いてきた。
私はううん、なんでも。と云って自分の変化を誤魔化そうとしたが、
マスターにはお見通しらしく、
「水臭いよ、常連とマスターの仲じゃあないですか。」
と執拗く聽いてきた。
私は観念した。接客業を長年続けてきたマスターの嗅覚は大したものだ。
「マスターには隠せないね。」


私には婚約者がいた。婚約、といっても両親には何も告げておらず、
二人の仲だけで将来を誓い合っている。只それだけのことだっただが、
いよいよ結婚の話が現実化してくると、両親にこの事を話さなくてはいけなくなってきた。
別に反対されるわけではないと思うのだが、
両親にこの子とを云うのは躊躇われた。何故なのだろう。ただ、結婚のことを
両親に話すことに奇妙な羞恥心を抱いているからなのかも知れない。
そうマスターに話すと、マスターは一寸待ってよ、と私に云って
他の客のオーダーを無視して店の奥に引っ込んでいった。


此處の店長は何時もこう。自分が客との話などにのめり込むと、
他の客を無視して話し続ける。接客業にあるまじきこの行動に閉口して
店を去る客もしばしばだが、大多数の客はこのマスターを歓迎していた。
このマスターはつまらない話には絶対のめり込まなかったからだ。
話に加わっていない客は皆、マスターの話に耳を傾ける。
ある客は「此處のマスターの話を聞いていると何かから解放されるんだよ。
仮令その話が自分の部屋のトイレを詰まらせた話でもね。」
といって一人で受けていた。


ようやくマスターがカウンターから戻ってくると、彼の手には一本の
ワインボトルが握られていた。
「領ると思うけれど、これ。」
マスターが見せた黄色のエチケットには「ラ・グランダム」と書かれていた。
「え、こんな高いワイン、いいんですか?」
すると彼は苦笑いを浮かべて結婚祝い、結婚祝い。と云って封を開けていく。
それは結婚祝いでも十分通用するワインだった。
「偉大な女性」をワインの名前に戴く収穫最良の年にしか作られないこのワインは、
シャンパンの最高級を歌う素晴らしいワインの一本に他ならなかった。
フルートグラスの中に金色の泡が注がれる。
「如何してこれを?」私はクラスの足を持ちながらマスターに尋ねる。
するとマスターは先程といたコルクを押さえていた口金見せた。
「此處に婦人の肖像が描いてあるでしょう?これはシャンパンの普及にに多大な広磧を与えた
あのヴーヴ・クリコ、マダムなんですよ。」
彼は愛おしそうにマダムの肖像を見つめる。
「彼女がいなかったら瓶内二次発酵による澱が取り除けずにいたし、
ロゼ・シャンパンを作り出したのも彼女なのです。
「ルミュアージュ」という技術を知っていますか?」
私は首を傾げた。私はワインが好きでも其処まで詳しくはなかったからだ。
マスターは失礼、と云いながら自分のグラスにラ・グランダムをグラスに注ぎながら
話し続ける。「「ルミュアージュ」、日本語で云う動瓶は保存してあるワイン
ボトルを一本一本揺するという根気のいる作業なんですよ。
これによって澱をのぞくことが出來るんですが、
とてもじゃないが、ワインにかける情熱と愛情がなければ出來ないことです。」
少し赤みがかった彼の目が、間接照明に当たって優しく光る。


「ラ・グランダムは28年間にたった9ビンテージしか出ていません。
自分の作ったワインに對する絶対的な自信と愛情。
貴方も結婚をする、と決めたのならば一生連れ添っていくという絶対的な自信が
あるでしょう。それならば照れることなんかありません。
自信を持ってご両親に報告できるはずですよ。私だって、ほら。」
彼は左手を私の目の前に差し出した。細い指輪が薬指にからみついている。
私は促されるまま、グラスの中で踊る液體を飲んだ。口の中で泡が跳ね回る。
愛情と自信の味。優しく、厳しくもあるワインを堪能する。
「おめでとう。お幸せに。」


そして私は店を出た。外で降っていた雨もあがっており、雲が月をうっすらと隠している。
明日にでも、云ってみようかな。
少しだけ軽くなった私の心はそんな事を思えるようになっていた。

堪能する