薔薇十字館

僕と彼女の時間。


「カレラ・セレック」(ビンテージ失念)

馬鹿馬鹿しくも僕は職業ジゴロというまたまた大層な者になっていた。
何時もパトロンとなる婦に就て日々の暮らしを立てている。
初めの婦が他の女を紹介し、他の婦が次の婦を紹介し、と
僕はパトロンに困ることは全くなかった。
これは天性の才能なのかも知れない。
自らの個性で人を魅了する。僕の魅力に狂れてしまった婦が僕を買う。
全く完璧な図式だった。
だが唯一悲しい事実として、僕は人を愛したことがなかった。
只の一人も。幾人もの婦を抱いてきて、僕は一度も愛しいと思ったことはなかったのだ。
パトロンにしては奇妙な執着心を持たない僕は好都合なジゴロだった。
だから何時も契約するときはきちんと断っていた。僕は婦を愛さない、と。
だが多分、これは神が与えたもうた罰なのだと思った。金に目がくらんでしまった自分への。


そんな僕のパトロンが又変わるようだ。
僕は前のパトロンに指定された喫茶店に行くと、其処には
「品のいい」と形容するに相応しい婦がティーカップを前に座っていた。
歳は50代だろうか。僕とはもう20歳近く離れているだろう。
髪の毛は緩いウェーブがかかっており、ブランドを誇示しないが、
仕立ての良さから高価なものを身につけているのだというのが見て取れた。
「こんにちは。」何時も通りの営業的笑顔で彼女の向かいの椅子に座る。
この笑顔で参らない婦はゐなかった。彼女も例に漏れず、僕の巧みな話術に乘っていく。
そうこうしているうちにパトロンの契約を成立させた。
無期限で月に120万、なかなかの契約だった。僕は内心北叟笑み、
彼女の手を握った。彼女の手は細くて軽い氣がした。


「私には主人がゐましたの。」
寂しげに彼女はそう切り出した。僕はその過去形の話し方から
彼女に何と声をかけていいか領らずに黙っている。
彼女が住処とする處はとても大きく、恐らく亡くなられたご主人が
殘されたものなのだろうと推測できた。
彼女は一本のワインボトルとナイフを僕の目の前に置くと、
あけていただけますか?と靜かに云った。
僕は「カレラ・セレック」と書かれたそのワインに手をかけると、
ナイフのスクリュー部分を捩込んだ。
「これは主人が好きなワインだったのよ。」
「そうなんですか。」
「ええ、主人は既成概念というものをずっと嫌惡していたわ。」
そういいながら彼女は手に持ったグラスをトワリングする。
ゆらゆらと揺らめく液體と過去を回想する彼女に僕は眩暈を覚えた。
「主人は誰もが出來るとは思っていなかったカリフォルニアで上質のワインを産出する
カレラと自分を重ね合わせていたんでしょうね。
何時も仕事に追われながら、そして死んでいったんだわ。」
彼女の目から落ちた滴が床に着く前に、僕は彼女の躯を抱きしめていた。
初めて僕は人を愛しいと思えたような氣がした。


それからの数ヶ月、僕達はどれだけの蜜月を過ごしたのだろう。
僕は全く彼女の年齢など気にもせず、彼女は何時も屈託無く笑っていた。
普通はやらないようなことも色々やった。
遠乗り、外食、旅行・・・僕達は全く若いカップルと同じように逢瀬を重ねた。


そして突然、別れがやってきた。


「貴方に紹介したい人がゐるの。」
紅茶を飲んでいた僕の手が止まった。急に体験したことのない震えが走る。
「如何して?僕達、もうお仕舞いなのかい?」
「そう、私達は長く一緒にゐすぎたわ。このままではお互いのためにならない。
いいえ、貴方のためにならないわ。」
彼女はそう云うと、手元にあったカレラの瓶を傾けた。
大きなワイングラスの縁から溢れたワインがしたたり落ちていく。
ちりちりと音を立てながら落ちるワインはガーネットのようで、また彼女の涙のようだった。
月夜が僕達を包み込んでいく。うっすらと雲がかかった白い天体が
グラスと彼女の皮膚を照らす。僕は一歩も動けずにいた。
彼女の次の一言も怖かったし、何より、ワインを注ぐ彼女の容姿が
僕の心を掴んで離さないでいた。
「だから私は貴方との契約を破棄するの。ねえ、いいでしょう?」
「一寸待ってくれ。」
僕は締め付けられる胸を押さえながら彼女の言葉を止める。
「貴方は自分に嘘を吐いている。貴方は僕のことが好きなはずだ。
貴方の目が僕にそういっているじゃあないか。」
そう、彼女は泣いていた。その事実を隠そうとする彼女の持つグラスから
またワインがこぼれる。彼女の衣ている白いナイトドレスは紅く染まっていた。
たたずむ僕らはガレージフィギアのように固まっているだろう。
お互いに次の言葉を発することが躊躇われた。
ルノアールの絵画のように、ゆっくりと時間が過ぎていく。
やっと口を開いたのは彼女の方だった。
「もう、いいでしょう?・・・私には時間が残り少ないの。
貴方の時間にはもう、あわせられないの。」
僕は無言で彼女を強く抱きしめた。月光に照らされた僕らの影が一つに重なる。
あの時と同じように。
彼女の持っていたグラスはカレラを中に入れたまま、床で弾けた。
彼女の躯からは、カレラの所為だけでない苺のような匂いが漂っている。
「もっと前に、出会えていれば良かった。」
僕は彼女の細い腰をもう一度強く抱きしめると、彼女の領域から姿を消した。
さようなら、愛しい人。風に乗せてそう聽こえたような氣がした。

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