薔薇十字館

優しさか、如何か。


コンチャ・イ・トロ

夕闇が迫る頃、からん、と音を立てて僕は美容室の扉を開けた。
小綺麗な店内には散髪台が2つと洗髪台が一つある。
僕はこの美容室が好きだった。店内に流れるアンニュイな音楽と
一人で切り盛りしている美容師の細い指が僕の髪を触れる感覚が
僕に些細やかな安堵を与えてくれた。
「又來たのね、いらっしゃい。」
彼女はそう、僕に云うと散髪台の方へ導く。
僕は髪を切ることが無くても此處に來ていた。
理由もなく自分の髪に触って貰うのも何だったので、
何時もシャンプーをして下さい、とかトリートメントだけで、と云って
髪を洗って貰っている。
だが珍しく今日は整えて下さい、と美容師に告げた。
今日は僕の恋人が言い出した別れ話を聽くために、会うのが最後になるかもしれないからと
僕は少し、悲観的な思いを胸に此處に來たのだった。
「珍しいものね。今日は何かの記念日?」
「最高のね。」
僕は話す気にもなれず、僕はぶっきらぼうに答える。
「あら、機嫌が悪いのね。」
彼女は僕の髪の毛を触りながらどういう風にするのか聽いてきた。
揃えるだけで、といって、落ち着かない自分の心を無理矢理落ち着けてみようとするが、
とてもじゃあ無いが無理だった。まだ半年も経っていないのに、酷すぎる。
どれだけ恋人に惚れ込んだのか分かりはしない。
だが、恐らく僕の気持ちは伝わっていなかったのか、こんな結果となってしまった。
それじゃあ僕は・・・。


「髪を切る前に何があったか教えてもらえる?」
彼女は鏡に映った僕の苦悩の表情を見ながら怪訝そうに云った。
「ええ、出來れば。」
「もう、夜だから店を閉めるわ。」
彼女はそういうと、openカードをcloseの方に回した。
そして僕は自分の思いの重みに負けて恋人のことを話し始めた。
話し終えると彼女はにやにやしながら僕を見て、
「へえ、貴方でも恋に悩むことがあるのね。」
と呟いた。心外な。僕が恋から遠いようなことを。
「如何してそんなこと、いうんです?」
すると彼女はけたけたと笑い出し、
「だって、いつでも貴方の方が振り回しそうなんですもの。」
と僕に切り返した。
やれやれ、馬鹿にされているのか褒められているのか領ったものじゃあない。
「一寸まってて。」
と、軽やかにステップを踏んで彼女は店の奥の方に入っていった。
何かしら喜んでいる樣子である。人が不幸で悩んでいるのにあの幸せそうな樣子は何だろう。
僕は彼女の幸福そうな姿を見て苛立ち、嫉妬した。


彼女は戻ってくると、一緒に飲みましょう、と、グラスを僕に差し出した。
「今から僕は恋人と別れ話をしに行こうとしてるんですよ?」
「一杯だけ、いいでしょう?」
僕は絶句しながら彼女にグラスを握らされた。
そして何處から取り出したのか、グラスにワインを注ぎだした。
「少しはリラックスして会いに行った方がいいでしょう?」
注がれたワインは明るい紅で、溌剌とした香りが漂ってくる。
僕はワインを口に含んで喉を潤した。
からからに燥いていた僕の喉にワインは暖かかった。
すぐにグラスを空ける。
「大丈夫よ。彼女は貴方の處に戻ってくるわ。だって貴方がそれだけ愛した婦でしょう?
大丈夫、大丈夫よ。もしも本当に別れたのなら私が彼方の恋人になってあげるから。」
もう一杯、もらえるかな。と僕は彼女に向かってにグラスを差し出した。
彼女はすぐさまグラスに紅を注ぐ。
僕は一気にグラスの中の液體を飲み干した。


散髪の前に髪を洗うために僕は洗髪台に上がった。
顔には白いタオルが置かれ、視界が遮られる。
僕はゆっくりと目を瞑った。
「熱くないですか?」やんわりと彼女が聽いてくる。
だが僕はその問いに答えられず、躯を小刻みに震わせるしかなかった。
「熱いですか?大丈夫?」
僕は朱唇を震わせながら彼女に語りかける。「ねえ、美容師さん。」
「何です?」


「僕が泣いているの、領りますか?」

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