薔薇十字館

本当はずっと貴方を。・1


イングルノック


気の置けない僕の数少ない友人、悠木啓介は僕の隣でけたけたと笑い転げた。
突然笑い出した友人を見た他の客がギョッとした目で僕達を見つめる。
僕は気恥ずかしくなって彼の腕を引っ張る。
「だって、それはお前、やりすぎだろ。」
未だに肩をゆらしながら笑っている彼の横顔を眺めて僕は溜息をついた。
就職で離ればなれになってから、僕達はお互いの出張の度に飲み交わす仲だった。
今回は僕の方が出張で、彼の知っているバーに飲みに來たのだが、彼は少し飲み過ぎたらしく、
さっきから些細な言葉に対して笑っている。
二週間に一回くらいは電話で連絡を取り合っているから会っても特に話すことはないのだが、
何故か習慣のようになってしまってずっと続けていた。
しかし、僕は彼と話すのが苦手だった。口が達者な僕でも、彼に言葉を気安く投げかけるのは
とても躊躇われた。電話越しに聽こえる彼の声に対して話すのならば、
次から次に言葉を紡ぎ出せるのに。
「おい、聽いてんのかよ。」
「あ、ああ、すまない。」
どうもコリンズグラスを持ったままぼうっとしていたらしい。
彼は少し不満げな眸で僕を見つめていた。
嫌だ、見ないでくれ、そんな目で。
そうだ、僕はこの目で見られるのが一番嫌いだった。
罪がなさそうな目で僕を見つめるその目が、僕の何かを狂わせてゐるんだ。
僕は狼狽していたが、それを彼に知られたくなかったので恍惚ける。
「何の話だったっけ?」
「柏木、お前もう、会ってはなさんぞ。」
そう云いながら彼はまた高笑いを発する。よかった、気付かれていない。
僕は安堵したのだが、ふと顔を上げるとマスターの視線が痛いほど彼に注いでいた。
殺気を感じ、店を出ようと思った僕は、彼の肩を抱いてチェックを済ませる。
「おい、悠木、大丈夫なのか?」
「らいじょうぶだよ。なにしんぱいしてんの?」
どうも完全に酔ってしまったらしい啓介を担いで彼の部屋に向かう。


もう何度と無く泊まりにいった彼の部屋は一人暮らしにしては広く、英吉利や仏蘭西の
旧家のような雰囲気を漂わせていた。
・・・でも今のこいつなら形無しだよな。啓介は道をふらふらと蛇行しながら歩いている。
いつも僕と飲むとき彼は泥酔するまで飲んで、結局朝、僕が部屋を出るときに
彼が目を覚ますことはなかった。大学の時と変わらない、成長しないやつだ。
「お子様め。」僕は彼から鍵を奪い取ると、無理矢理こじ開けるようにして
ドアを開け、啓介を押し込んだ。
すると途端に彼は元気になって、事もあろうに
「おい、飲むぞ。」などと云いだす。
「・・・止めとけ、明日仕事があるんだろう。」
僕は諫めたが、五月蠅い、と一言云って彼はサイドボードからグラスを取り出し、
デキャンタージュされたワインを持ってきた。今から一本開けるのか・・・。
僕がげんなりしているのを尻目に彼はグラスを目一杯に滿たした。
「零れるじゃあないか。」
「こぼしたらクリーニング代を払え。」
「・・・素面なのか?」
彼は意味深な笑みを漏らすと啜るようにグラスの中の液體を飲んだ。
僕もそれに柔順ってグラスの紅を吸い込む。
不味くはない。でも、軽すぎた。グラスの中に映る色はそのボディの細さを顕しているようで、
明るすぎるほど桃色じみている。
「給料日が近いから余り高いのは買えないんだよ。これはバルクワインさ。」
ああ、成る程。今までデキャンターだと思っていたものはきちんとエチケットの貼ってある
ボトルだったのだ。きちんと見るとエチケットには「イングルノック」と書かれていた。
「金がないときは安いウィスキーかこれだよ。何せ3リットルで1500円だぜ。」
彼は何故か誇らしげに杯を勧める。僕もよく分からないままその勧めに乘っていた。


「あのよ、おれ、今付き合っている人がゐるの知っているだろう?ほら、お前も知ってるだろ?」
突然彼は口を開くと、そう僕に話しかけてきた。
酒精に潤んだ啓介の眸が僕を見る。「ああ、あの子、如何かしたか。」
僕は目を合わせないように相槌を打った。
「俺は彼女に惚れ込んでいるんだけど、相手がどの位想ってくれているのか、わかんないんだよ。」
「おいおい、そんな初めて付き合う訳じゃあないんだろ?」
「・・・五月蠅い。初めてで何が悪い。」
にらみつける彼の眸は真実を語っているようだった。僕は慌てて
「いや、付き合っていく内に領るものなんじゃあないかな。」などと陳腐なフォローする。
それでも彼は何となく納得したらしく、うん。そんなものかな。といってベッドに潜り込んだ。
やれやれ、世話が焼けるよ、君は。
僕も明日の仕事に向けてゆっくりとソファに横になる。
彼女か・・・。そう、僕にも付き合っている婦がゐた。
色々魅力があるのだが、僕の心を射止めたのは
可愛らしく微笑んでころころと転げ回る容姿だった。
そんな愛しい彼女がゐるのに僕の心は何故か今、左右に強く揺さぶられていた。
何に僕の心は惹かれているのか・・・真逆。
僕は安らかな寝息を立てながら小さく丸まっている啓介の寝顔を見つめた。
そして、今日までの一連の行動を頭の中で反芻した僕は愕然とした。
これでは戀愛感情ではないか。
僕は彼に恋をしているのか?彼は男だぞ。しかも僕も彼もしっかり彼女がゐるのに。
如何すればいいんだ・・・僕は頭を抱えながらソファに蹲った。
救われそうにない夢を見そうだった。

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