薔薇十字館

本当はずっと貴方を。・2


イングルノック


こうしていればいい、いつか、忘れる・・・。
煙草に火を付けながら、僕はそう、考えていた。横には心地よさそうな寝息を立てている
彼女がいる。灰皿を微昏い室内で探しながら、ふとこの前の出張のことを考えていた。


啓介の部屋の堅いソファで蹲ったあの日、
沸き上がってしまった感情を一生懸命理性で処理しようとした結果、僕は結局一睡も出來なかった。
僕は、惹かれているのだろうか、彼に。
そう考えると煙草などでは消化しきれない思いに駆られ、無性に酒精が欲しくなってしまう。
「ぅ・・ん・・。」
ベッドから降りるときに起こしてしまったのか、彼女は寝返りを打った。
幼さの残るその顔は全く罪がなさげで僕の心を少しだけ癒した。
だが、同時に罪悪感を抱いてしまう。彼女の事を愛する氣持ちと同時に
彼に惹かれる心が僕にそう、思わせているのだ。
如何すればいいのだろう。この想いは。
忘れたい、でも、彼の大きな眸が僕の感覚を握りしめて離さないのだ。
もう一度ベッドに潜りたい気持ちを抑えながらふと時計を見ると、7時を指していた。
出勤の時間だ。また僕はルーチンワークをこなして出張の日を楽しみにする。
そんな生活が続くのか。全く溜息が出てくる。
僕はゆっくりと着替えを済ませると、朝食を一人で取って部屋を出た。
彼女は未だ部屋で眠りこけているのであろう。今日は仕事がないらしい。
気楽なものだ。


会社の前に着いたとき、胸ポケットがかすかに揺れる感覚がした。
携帯か?僕はポケットに手を差し入れると携帯電話を耳に押しあてた。
「悠木君が大変なの!ねえ、柏木さん!助けて、ねえ!」


啓介は病院のベッドの上で死んだように眠っていた。
僕はあの電話の後、会社に行かずにそのまま新幹線に乗り込んでいた。
彼に何があったかという詳しいことなど聽かずに。
気付いたときにはもう、驛の方向に駆け出していたのだ。
彼は急性酒精中毒で病院に運ばれていた。接待が続いて、それでも仕事だからと
つきあい続けた結果、こうなってしまったらしい。
血の気のない彼の姿は蝋人形のようで、もう生気がないようにも思えた。
だが、規則正しく落ちる点滴と、靜かに上下する胸がしっかりと
生命の鼓動を刻んでいることを示している。
「悠木・・・。」
僕は頬に手を伸ばすと、血の気のない朱唇に指を這わせた。
からからに燥いた彼の朱唇は少し頗割れている。
こんなに朱唇、薄かったんだな・・・。
少し、汗ばんでる・・・。
啓介の、くちび・・。
突然がらがらという音と共に病室のドアが開き、婦が駆け込んできた。
僕は慌てて彼の躯から離れる。
「あ、柏木さん、悠木君気付きました?」
「いや・・・未だだよ。美紀ちゃん。」
僕に電話をかけてきたのはこの子だった。彼と僕との共通の友達であり、
啓介の彼女であった。美紀が啓介と付き合うようになった過程は僕は知らない。
だけれども、この婦が啓介の彼女であるという事実が今の僕にはとても苦痛だった。
「早朝に意識を失ってから未だ気付かないんです。大丈夫かな・・・。」
心配そうに啓介の顔をのぞき込む彼女を僕は憎悪の目で見た。
そうだ・・・壊してしまえばいい・・・。
頭の中で響いたその言葉の誘惑に、僕はあっさりと乗ってしまった。
備え付けの椅子に座っている彼女の肩を後ろから抱きしめる。
「え!?柏木さん!?ちょっと・・・止めて下さい!」
「美紀ちゃん、御免・・・でも好きなんだよ。美紀のことが・・。」
柔らかいウェーブのかかった髪に顔を埋めながらそう囁く。
「柏木さん・・・・?」
この婦さえいなければ、少しは楽になれたのに・・・。
少しは、楽に・・・。
僕は美紀の肩をずっと抱きしめていた。
この肩が、啓介の肩ならばいいと思いながら。
そして僕は気付いていた。啓介が目を覚ましたことを。


何も云わずに、目を覚ましていない素振りをしていることも。

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