薔薇十字館

僕は只、見上げるのみ。


カフェ ド パリ ライチ

此の館は鍵というものがなかった。
僕は重いが簡単に開く扉を押し開けると、広間をゆっくりと歩いた。
シャンデリアに灯る蝋燭は儚げで、僕はつい、忍び足で部屋の中を歩いてしまう。
窓硝子には僕の顔が不機嫌そうに浮かび上がっており、部屋の清掃が行き届いていることが領った。
「また來てしまったのね。」
僕が驚いて振り返ると、其処には此の館の女主人が立っている。
そういえば何時もこの人は気配を感じさせずに人の後ろに立つ癖があったな。
懐かしさに眩暈を起こしながらも会釈する。
「すみません、つい・・・。」
「もう、来ないんじゃあなかったかしら。」
彼女は少し寂しげな顔で僕に告げた。何かを訴えるように。
「いえ、僕は貴女に会いたかったのです。とても。」


僕が彼女と会ったのはとても奇妙な感じだった。
僕が飲んでいたバーの軒に彼女が雨宿りをしていたのだ。
僕がバーから出ようとしたときに、彼女が一言呟いた溜息混じりの言葉が未だに忘れられない。
「雨、未だ止みそうにないわね・・・。」
僕はその一言を呟いたときの彼女の表情に一目惚れした。妻がいるというのに。
僕は食事に誘ったり、バーを梯子したりして飲み明かしたりもしたが、
彼女を抱くことだけは躊躇われた。妻に申し訳を立てているわけではない。
ただ、躊躇われたのだ。うっすらと微笑む彼女の顔を見ていると僕は金縛りにあったように
ただ見蕩れてしまった。絶世の美女ではないがほっそりとした顔立ちの彼女の頬を
指でなぞる事が出來るのならば、僕は全てを擲っても良いくらいだった。
そういう自分が、自分では理解できなかった。
だから彼女と逢うことを止めたのだ。自分を見失いそうで、彼女の全てに、飲まれそうで。


彼女は応接間に僕を通すと、ディスプレイされているリーデルのグラスを2脚もって
テーブルに着いた。彼女が動くたびにテーブルの上に置かれた燭台の焔が揺れ、
僕達の影は紅い絨毯に踊った。
「如何してまた逢おうと思ったの?」
彼女は私の方を見ずに訊ねた。
僕の足を組み替える時の衣擦れの音が部屋の中に響く。
「僕は、貴女のことが好きなのです。」
僕はそう、呟いた。
「初めて知ったわ。そんなこと・・・。」
僕は大いに心の中で喜びつつも、知られていたことに落胆していた。
雰囲気で感づかれていることに、落胆していた。
「貴方は私を切ったのよ。今更だわ。」
彼女は蝋燭の炎を揺らしながら館の闇に入り、白い瓶とグラスを両手に持ってきた。
麻の布巾をボトルにかぶせると、マッシュルーム型の栓を抜く。
「此を飲んだら、もう、此處には来ないで。」
僕は彼女の目を見た。濡れ猫のような眸には決意の色が見える。
同じ気持ちなのか・・・。僕はホステスに注がれたフルート型のグラスを持ち上げた。
彼女は鑞で出來た自動人形のようにグラスを持ち上げる。
か細い指先が泡立つグラスを愛撫している。
僕はその指を見ながらグラスを傾けた。


ワインは、「ワイン」と呼ぶには余りにもお粗末なものだった。
スパークリングにしては爽快感が無く、甘さも押さえ気味で、苦い。
「此はね、ライチの味を混ぜ合わせたワインなの。可笑しいでしょう?
混ぜ合わせたことで雑味が増しすぎてこの様な味になってしまったの。」
僕の手の中では泡が逃げたがっているようだった。
僕は靜かにグラスを置くと、彼女の手の甲に口付けし、館から消え去った。


僕達は、矢張り一緒にはいられないのだ。
互いを切望しつつも、混ざり合ってしまってはならないのだ。
そして僕は、彼女の館の前を通る時、日の入らない館の窓から外を眺める彼女を
何時もと同じように、見上げる。

堪能する