オスカーワイルドの童話に幸福の王子というものがある。
同性愛者ならではの文章なのだが、そこは敢えて触れないでおこう。
重要ではないからね。
粗筋を書くのが面倒なのだが、
「幸福の王子」とは、鉛の心臓、躯は純金の金箔で被われ、目にはサファイア、剣にはルビーという豪奢な銅像。
王子は町の貧民を哀れんで、立ち寄った燕に頼み、自分のサファイアやルビー、金箔を取り出させ、貧民に分け与える。
そして、王子の持つ全ての金品が剥ぎ取られた時、冬になってしまい越冬出来なかった燕と共に息絶える。
最後には町の輩から塵芥扱いされるという非道い話だ(一番最後の下りで神に祝福される)。
・・・改めて考えても非道い話だ。
では何故王子は自分の持つ全てのものを与えたのだろうか、ということを考えてみると、
「自己犠牲も欲望である」とか「基督教信者だからだ(イエスキリストとの重ね合わせ)」等と愚にも付かない教科書的な回答を得られる。
やれやれだね。
それを少し前の現代に重ね合わせると、置き換えが非常に容易であるということが面白い。
父親は身を粉にしながら働いて、妻はそれを子に分配し、子は父からの分配物であるということを知らない。
挙げ句の果てにはぼろぼろになった両親を虚仮にする。
まあ、僕も人のことは云えないが、フィナーレの「神の祝福」が、後になって気付いた偉大さや親に対する敬意ならば、
強ち両親は不幸ではなかったのかも知れない。
自分に重ねてみれば、それこそ幸福の王子なのかも知れない。
労働や時間という金品を搾取され、自らで分配し、享受する者はそれが僕によって分配されたものであることを知らない。
最後には過労死して(其れこそ神様が)「よくやった。」と云って終わりなのだろう。
しかし自分の労働がフィードバックし、他人の幸福になるのだから(逆に動かなければ他人の不幸になるのだから)致し方ないのかも知れない。
やれやれ。
何事も不幸にするのは簡単なのだ。
ではプライヴェートではどうだろう。
僕が幸福の王子ならば、貧民に対して涙を流すことはあっても分配しようとは思わない。
彼等は僕でなくとも同等のものならば喜んで享受し、忘れるのだから。
願わくば鉛の心臟が砕け散る前に、愛しの燕に捧げたいものだね。
http://www.hyuki.com/trans/prince.html
結城浩 - The Essence of Programming